【起稿2026年9月7日記事】

今日は、雨降りの月曜日ですね...こんな日は静かな「和」の世界に思(おもい)を致しましょう😌...

日本には、縄文・弥生時代以来、列島で育まれてきた自然観や社会観を基層として、古代以降、大陸から伝来した中華をはじめとする諸文明・諸文化を受容し、それらを独自に融合・変容させながら、長い時をかけて形成・継承されてきた諸文化芸術が有ります。

この記事において私は、そうした歴史的な文学・音楽・演劇・芸能・諸芸道等の諸文化芸術を「伝統的日本文芸」と呼びますが、「伝統的日本文芸」は近代に入り、2回のとりわけ大きな危機に見舞われました。

最初は明治維新における西欧化を始めとする社会改革です。
西欧化は日本の文芸に新風を入れ、文芸活動を刺激して活性化させる一方で、上手く受容出来無かった分野は、人々の関心が薄れ、連歌や連句のように廃れたものもありました。
また、社会の変容により、文芸の題材・内容も変わらざるを得ませんでした。

2回目は太平洋戦争敗戦によるGHQの介入や日本人自身の価値観の変化です。
敗戦と戦後民主主義は、日本の文芸に新興の米国文化流入等による「新しい自由」をもたらしただけではなく、それまで伝統的文芸を支えていた社会・生活・共同体・継承制度を大きく破壊・変質させました。
その結果江戸時代以前に起こり、明治の西欧化を切り抜け、何とか命脈を保っていた分野の伝統的文芸に深刻な打撃を与えました。

明治維新後と太平洋戦争敗戦後の、こうした江戸時代以前から伝わる日本の伝統的文芸の危機については、歌舞伎や落語についてはよく語られていますが、いずれも江戸時代に成立し、伝統的文芸の中では新しく、現在まで比較的よく継承されています。

一方、室町時代以前にも盛期を持つ雅楽、能楽、茶の湯といった分野は更に苦戦を強いられ、文芸自体の消失の危機となったようですが、現在世間一般で語られる事は少なくなっています。
これらの分野では、現在も危機にあると思われますが、現在私達がこうした伝統的文芸に触れる事が出来るのは、前述の危機の時期にそれらの分野を護り、継承に力を尽くした人々の、献身的努力があったからだと私は思います。

実は先日私は、あるブロガーさんの記事に、「私は、大坪草二郎と竹下翠風の子供だ。」という記事を見つけて、仰天しました。
故・大坪草二郎氏と故・竹下翠風氏は、現在一般には、あまり馴染みが無いかもしれません。
しかし、和歌好きの私は、草二郎氏を存じており、この夫婦は、まさに太平洋戦争敗戦後の大変な時期に伝統的文芸を護った方

々なのです。

お二人に所縁のある秋月八幡宮(福岡県朝倉市上秋月)

※画像はphotoAC(www.photo-ac.com)より引用しました。

それにしても、ブログ記事だから私的な事も書くし、私も父親の人物像を紹介した事はあります👇


しかし、家族(しかも著名人)の実名公開は極めて珍しいと思いました。
記事内容からして、私は真実なのかな?と思っていますが、このブロガーさんが明かされたお父上大坪草二郎氏とお母上竹下翠風氏の功績については、現在断片的にしか伝わって無く、ウィキペディアのページすら有りませんが、日本の伝統的文芸の歴史において、間違い無く重要人物なので、さるブロガーさんには恐縮なのですが、私は自らのブログ記事に是非取り上げたい「歴史的人物」だと思い、お二人の人物・事績紹介と、「伝統的文芸の継承」という問題について語りたく本記事を起稿致しました🙇

さてまず、故・大坪草二郎氏ですが、福岡県上秋月村(現福岡県朝倉市)出身で、本名は大坪(後竹下)市助と言い、生年は1900年、没年は1954年です。
草二郎氏は、農家兼菓子屋に三男として誕生し、1912年に尋常小学校を卒業後、村役場小使いをしながら、学問好きだったので本を読み漁ったり、東京の日刊新聞「萬朝報」に自作短歌を投稿したりしていましたが、その後北九州へ出て、八幡製鉄所工員見習、港湾作業員、鉱夫をするなど苦労を重ねた末に、1920年に上京し、アララギ派の著名歌人島木赤彦に師事し、働く傍ら本格的に文芸活動を始めました。
そして1922年には、小説の処女作「雲水良寛」を発表・刊行しました。
また、同年には月刊邦楽誌「琵琶新聞」の顧問に迎えられ、同年から翌1923年にかけては、古代日本を舞台とした戯曲「曠野の花」、「大海人皇子」発表し、好評を得る等、次第に文芸界で名を知られるようになりました。

1920年代末には、三歌僧(西行・良寛・愚庵※)の研究、発表をしましたが、この事績は、和歌研究史上重要です。


※愚庵とは、天田愚庵の事で、幕末、現在の福島県に生まれました。

15歳のとき戊辰戦争にあい、行方不明になった両親と妹を探して各地を流浪、再会を果たせず禅僧になりました。

正岡子規より先に万葉調の歌を詠み、近代短歌に影響を与えた人物です。


各種資料を合わせ考えると、草二郎氏は、1922年に後に妻となる故・竹下光子(竹下翠風)氏と出会い、1930年代半ばまでに婚姻した事が窺えます。

また、1930年代に入ると草二郎氏は、琵琶歌の作詞をはじめ琵琶芸能に深く関与するようになり、その振興に力を尽くしたようです。
尚、1930年代半ばには、草二郎氏と翠風氏は東京にて
出版社「竹翠書院」を共同経営していたようです。
更に1937年には歌誌「あさひこ」を創刊しています。
1945年太平洋戦争敗戦後は、しばらく故郷にて農業をしながら、文芸の戦後復興を志して活動をしていましたが、1954年に東京都豊島区で他界しました。

※上記草二郎氏の経歴については主に朝倉市公式サイトの「ふるさと人物誌」を参考にしています。

朝倉市公式サイト👇

※尚、草二郎氏の短歌も数首掲載されています。


さて続いて、故・竹下翠風氏ですが、東京(詳細不明)出身で、本名は竹下光子と言い、生年は1905年、没年は1990年です。
翠風氏は、5歳の時に父から筑前琵琶を習い始め、その後高等女学校に進んだようですが、1919年に中退したようです。
草二郎氏の資料で翠風氏と草二郎氏の出会いは草二郎氏上京後の1922年とされますから、二人は東京で出会ったのでしょう。
私の推測で根拠を持ちませんが、私は二人の出会いには、草二郎の師の島木赤彦が関わったのでは無いかと感じています。
何故なら島木赤彦は、長野県諏訪の出身ですが、1914年に歌誌「アララギ」再建の為に上京し、併せて東京市小石川区(現東京都文京区小石川)にあった淑徳高等女学校の非常勤講師となっていますし、その後しばらく小唄(主に三味線伴奏付きの歌)等の小曲を作っているのは、二人との接点を想像させるのに十分です。

翠風氏は、1920年代後半には筑前琵琶界で頭角を現したと思われ、1932年には自らの流派「翠琵琶」を創立し、宗家となっています。

琵琶の歴史と現状

「琵琶曲図書館」
公式サイト👇

※スイス出身の筑前琵琶奏者にして音楽学者のシルヴァン・旭西・ギニャール博士のサイトです。


そして草二郎氏のところで触れましたが、1930年代半ばには、翠風氏は出版社「竹翠書院」を共同経営していたようで、二人はその頃婚姻したようです。


また翠風氏は、どのような経緯か不明ですが、夫草二郎氏が創刊した歌誌「あさひこ」を、1938年から主宰しています。

翠風氏は、1942年に「邦楽協会」の評議員に就任したのをはじめ、太平洋戦争後は1980年代まで「日本琵琶楽協会」で役職を歴任しており、琵琶楽の継承・発展に力を尽くした事が窺えます。

翠風氏は、1990年に他界しました。

※上記翠風氏の経歴は、日本琵琶楽協会、琵琶新聞、芸大リポジトリ、コトバンクの記事を参考にしています。

日本琵琶楽協会
公式サイト👇


以上書いてきた通り、大坪草二郎氏と竹下翠風氏は、太平洋戦争敗戦後の「伝統的日本文芸の継承」に極めて大きな貢献を果たした功労者です。
短歌は現在も、俵万智さん等の現代歌人の活躍によって、現代感覚で日本人特有の感性に触れる事が出来ます。
また、筑前琵琶は、歌舞伎や落語同様に、古典を大切にしつつ、新作や西洋楽器とのコラボが盛んになり、伝統的日本文芸に根差したエンターテイメントとして
、関西万博等の大きなイベントや、YouTube動画配信で楽しむ事が出来ます。

「第13回詠水会新緑の会」(2026年、「筑前琵琶」新家旭桜、「舟弁慶」)

錦心流薩摩琵琶詠水会
公式YouTubeチャンネル👇


「大和の言の葉」万葉集に始まる日本文学の系譜、古代朝廷の雅楽に端を発する琵琶楽の系譜、これらを現在も私達が楽しめるのは、「伝統的日本文芸の危機」に立ち上がり、力を尽くした人々がいたからなのです。

お二人のイメージイラスト
ナノバナナ2作画
※お二人ともネット上に肖像写真は皆無なので、私の全くの想像です。

私はそれに思を致し、先人に感謝申し上げます🙇