【起稿2026年8月23日記事】
昨日投稿した記事に、北海道函館市出身のみんつちさんから、風光明媚な道南の大沼に関するコメントを頂きました🙇
私は、道南へ行った事はありませんが、「鉄ちゃん」として、函館本線の前面展望
・車窓の動画を頻繁に見ます。
新函館北斗~森は、日本の鉄道車窓でも1、2を争う素晴らしい景色だと思います。
函館本線大沼公園付近
静かに深い藍色の水を湛える大沼から望む雄壮な駒ケ岳。
私は、かつて観光旅行の書籍を読んだ際、たまたま目にした彼の地の悲しい話を思い出しました...
※以下の話は、安藤(安東)氏に関する歴史学書籍(遠藤巌秋田教育大学名誉教授著:「地方別日本の名族1東北編Ⅰ」)と地元(北海道七飯町等)が発信している大沼と駒ケ岳に纏わる伝説を元に、私が再構成(創作)したもので、歴史的に形成されたものではありません🙇
悲話※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
1513年(永正十年)、まだ道南の海と大地に、蝦夷の民と和人が互いに警戒しながら暮らしていた頃の話です。
大館(現北海道松前町字神明)を治めていた相原季胤は、昨年から凶作や海難が相次いでいる事に、頭を悩ましておりました。
ある日、季胤のもとに、「矢越岬の海神が怒っている」という託宣が、もたらされました👹
自然の力の前に人が無力であった頃の話です。
「海神の怒りを鎮めるには、人身御供を捧げるほかあるまい。」と重臣達は口々に言いました。
...民を慈しんだ季胤は迷いました。
しかし、海で命を落とす者が増えるにつれ、人々の不安と恐れは大きくなっていました。
...春まだ早いある日、ついに季胤は、重臣達の言葉通りに、非情の判断を下しました。
選ばれたのは、蝦夷の若い娘たちでありました。
二十人、三十人とも伝えられる娘たちは、海へ連れて行かれました。
娘たちは泣き、母の名を呼び、恋しい人の名を呼んでいました。
その中に、まだ少女と呼んでもよいほどの娘がいました。
彼女は海へ沈められる直前、季胤を見上げて言いました...
「殿様。あなたにも、娘がおありなのでしょう?」
季胤は答えられなかった。
娘は続けた。
「ならば、私達にも、私達を待つ父や母がいる事を忘れないでください。」
...その言葉は、季胤の胸に深く突き刺さった。
だが、もう後戻りは出来無かった。
娘たちは一人、また一人と、重し石を括り付けられ着物のまま、凍てつく早春の海へ落とされていきました。
その夜から、矢越岬(現北海道知内町)では、風のない夜にも女たちの泣き声が聞こえるようになったと言われます。
矢越岬
北海道知内町HP👇
...そして、春が終わりを迎えた頃、蝦夷の民が蜂起しました。
「娘たちの命を返せ!」
怒りの声は山野を越え、大館へ押し寄せました。
季胤は悟りました...
自分が犯した罪は、もう刀でも城でも償うことが出来無い。
落城の迫った7月3日、ついに季胤は二人の娘を連れ、愛馬にまたがって大館を逃れました。
だが、逃げた先の大沼にも、蝦夷の兵は迫っていました。
湖畔に追いつめられた季胤は、二人の娘を振り返りました。姉は十七、妹は十五でした。
姉が静かに尋ねました...
「父上、私たちはどこへ行くのですか?」
季胤は答えられませんでした。
妹が言いました...
「もう、逃げるところはないのでしょう?」
季胤は黙ってうなずいた。
すると姉が、父の手を握った...
「父上!私たちは、父上を恨みません。」
季胤は驚いて娘を見た。
「でも、父上が海へ沈めた娘達は、きっと父上を許してはいないでしょう...」
その言葉に、季胤は顔を伏せました。
湖には夕暮れの赤い光が揺れていました。
姉妹は互いに手を取り合いました。
そして...
「父上、さようなら」
二人は静かに桟橋から湖へ身を投じました。
季胤は声を上げることさえできませんでした。
ただ、水面に広がる波紋を見つめていました。
...やがて追手の声が近づいてきました。
季胤は愛馬と共に湖中の小島へ渡り、そこで馬の鞍を外しました...
馬は主人の顔をじっと見つめていました。
「お前まで死ぬことはない。」
季胤は愛馬の首を抱きました。
「私はここで終わる。だが、お前は生きろ。」
馬は小さく嘶きました。
季胤は、対岸の彼方にそびえる山を指さしました。
「見えるか、あの山へ行け。
あの山なら、誰もお前を追ってはこまい。」
そして、最後に馬の額を撫でました...
「私のことは忘れろ。」
しかし、馬は動きませんでした。
季胤は刀を抜き、意を決して自らの命を絶ちました。
...その瞬間、馬は大きく嘶きました。
それは、悲しみとも怒りともつかぬ声でした。
そして、主人の亡骸を振り返ることなく、湖へ飛び込みました。
水しぶきを上げながら湖を渡り、岸へ上がると、ただ一心に山へ向かって駆けていきました。
その姿は、まるで主人の最後の願いを守るかのようでありました。

馬が駆け上った山を、人々はいつしか「駒ヶ岳」と呼ぶようになりました。
季胤が外した鞍を掛けた岩は「鞍掛岩」と呼ばれるようになりました...
しかし、それだけではありませんでした。
その後、毎年7月3日になると、駒ヶ岳の山中から一頭の馬の嘶きが聞こえるようになったと言われています。
漆黒の闇の中、山に響く、馬の嘶き。
和人の人々は、それを季胤の愛馬が主人を呼ぶ声だと言いました。
でも、蝦夷の古老たちは別のことを語りました。
「あれは馬の声ではない。」
「海へ沈められた娘たちの魂が、まだ季胤を呼んでいるのだ。」
「そして馬は、その声を聞くたびに山の上から主人を探しているのだ。」
...だから7月3日の夜、駒ヶ岳の山中では、馬の嘶きが一度聞こえると、しばらくしてもう一度聞こえると言います。
一度目は、馬が季胤を呼ぶ声。
二度目は、季胤を許せない娘たちの声。
そして三度目に聞こえる嘶きは...
「父上、もう帰ってきてください。」
湖に消えた二人の娘が、父
季胤を迎える声なのだという...
その声を聞いた者は、決して湖へ石を投げてはなりません。
何故なら、水面に波紋が広がると、その下から白い着物を着た二人の娘が現れ、
「父上は、まだ帰ってきませんか...」
と尋ね出てくるのです。
そして、もしその問いに答えてしまえば、翌朝、その者は姿を消し、その者の家の前には、濡れた馬の蹄跡が残っていると言います。
以来、大沼の人々は7月3日になると、湖を騒がせず、駒ヶ岳を見上げて静かに過ごしました。
海に沈められた娘達の魂。
湖に沈んだ姉妹。
主人を失った一頭の馬。
三つの悲しみは、五百年を越えた今もなお、駒ヶ岳と大沼の間を彷徨っているのです...
だから、夜の駒ヶ岳に馬の嘶きが聞こえたなら...
それは山の馬が、今もなお
、湖の底に眠る主人を探している声なのかもしれません...
