【起稿2026年7月8日記事】

久々の「歴史的解釈(妄想😅)」シリーズの新作記事に、お越し頂きありがとうございます🙇

今回は、前に投稿した藤原不比等公の「皇統(天皇)を唯一の権威とする思想」を受け継ぐと共に、「日本の国体を現在見られる形に定着させた」者達を取り上げます。



私が考える「日本の国体を現在見られる形に定着させた」者達とは、鎌倉幕府第三代執権の「相模太郎」こと北条泰時と、孫で第五代執権の「最明寺入道」(幼名:五郎)こと北条時頼です👆

私は、この「歴史的解釈(妄想😅)」シリーズを書いてきたように、現在日本史に強い興味を持ち、日本史探求を趣味としています📚

しかし学生時代は、日本史よりも世界史(それも中世ヨーロッパ史😅)に興味があり、高校の成績も、世界史は10段階評価で10でしたが、日本史は8でした。
そんな私が日本史に興味を持つきっかけとなったのは、個性的な史観を持つ評論家山本七平さんの「日本的革命の哲学 日本人を動かす原理」(以下、「日本的革命の哲学~」と省略)という書籍を高卒就職後に読んだ事でした😔

ところで、日本史を知る上で、日本人の大抵の男性は、戦国日本を統一した三大英雄(信長公、秀吉公、家康公)の伝記を経ると思います。
3人の中では、革新性や独創性が劣り凡庸で冴えなく見えましたが、私は中学生の頃

、幼い頃と比べ貧しくなり、バイトをしたり節約をして、何とか生活している自らの境遇と、三河の有力国人の家に生まれながら艱難辛苦に遭い、失敗から学び成果を積み上げて成長する姿にシンパシーを感じて

、家康公を敬愛するようになりました。
ですから、中学生~高校生の頃の私の愛読書は、山岡荘八さんの「徳川家康」でしたが

、その中で「家康は鎌倉幕府の統治に学ぼうと、吾妻鏡を熟読していた。」との記述がありました📖

私は、「260年余に渡る太平の世」を築いた大政治家の家康公が参考にした鎌倉幕府の治世に興味が湧き、最初は源頼朝公、続いて北条時政、政子、義時の事蹟を日本史書籍で調べました。
ところがそれらの人物の事蹟には、時代を創ったかのようなものは見当たりませんでした🙅

その後、高校を卒業する頃になると、一般歴史書籍よりも理解の難しかった政治や思想を扱う書籍も読むようになり、その時山本七平さんの「日本的革命の哲学~」に出会い「これだ!」と確信し、高価なハードカバーの書籍でしたが、高卒就職早々の安月給の中から購入して熟読しました👛

山本七平さんは、キリスト教プロテスタントの牧師家庭に育ち、キリスト教世界観から日本の歴史・政治・社会を解析した方で、その思想は、社会科学界で学術的評価は高くありませんでしたが、現在では元京都大学大学院教授大澤真幸博士等により、一定の評価を得ています😌

先日の記事に私は、自身が幼少期にキリスト教プロテスタント(メソジスト派)の教育を受けていると書きました👇


私と山本七平さんは思想基盤に共通点があり、私は山本七平さんの歴史観にも親和性が高かったのかと思いますが、山本七平さんが、日本の国体を理解する上で根本に考えておられる「権威(天皇)と権力(世俗勢力)の分離」は、おそらくプロテスタントから見たローマ法王権の在り方を投影したものだと拝察しておりますが、「日本的革命の哲学~」において山本七平さんは、この「権威(天皇)と権力(世俗勢力)の分離」を「日本的革命」と捉え、これを成し遂げた人物として北条泰時を高く評価しています👏                                             

権威と権力の相互不可侵イメージイラスト
ナノバナナ2作画

そこで私は、それまで見落としていた北条泰時という人物を調べました。
北条泰時(1183年-1242年)は、あの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、小栗旬さん(義時)と新垣結衣さん(八重)の息子で、坂口健太郎さんが演じていた人物です。
教科書的な事蹟として「御成敗式目制定」や大河ドラマで有名となった合議を最高決定機関「評定衆」として正式制定した事等が挙げられますが、私にはこうした泰時の事蹟は、「承久の乱」により露呈した、未だ不安定であった武家政権(幕府)の権力基盤を

、制度により安定させ、天皇を中心とした朝廷に手を出させ無いようにする過程と思えました🤔

こうした泰時の統治思想がどうやって形成されたかについて、山本七平さんは、同時代の華厳宗名僧明恵上人を登場させ、その影響を論じています。

ここからは、私個人の解釈となりますが、私は、明恵上人と泰時との交流の一次史料が無い事から、この点は山本七平さんの説に懐疑的です。

私の考えですが...
私は泰時の統治思想に影響を与えたのは、一人は頼朝公、もう一人は父義時急死による代変わり時に、後ろ盾となった政子だと考えています。

思えば鎌倉幕府創設者にして、東国武士団の精神的支柱であった頼朝公は、皇室の血を引く貴種(皇親末裔)であり、その政治的正統性は朝廷との関係を抜きには成立しませんでした。したがって、朝廷との協調は、思想というよりも、自らの出自や政治的立場から導かれる現実的選択だったと見ることができます。

一方、頼朝公亡き後、尼御台として東国武士団を精神的に率いることとなる政子は、東国武士の一豪族北条氏の出身でありながら、頼朝公存命中は妻として、朝廷と東国武士の双方を知り、配慮せねばならない「苦しい立場」にあり、「承久の乱」では幕府を守りながらも、天皇権威は維持するという対応をとっています。これは「権威を倒さず

、武家政権を護る。」という政子の「苦肉の策」として、私には理解できます。

そして泰時は、頼朝のような貴種でもなければ、政子のような御台という立場も無い

、単に将軍の下の御家人という身分です。(時政や義時は将軍近親の有力御家人ではありましたが、未だ「執権」という地位は確立しておらず、他の御家人に抜きん出た実力があった訳でも無い。)
私は、泰時が武家政権を維持するためには

、頼朝公と政子から学んだ「天皇の権威」と「武家の統治権」を制度的・理念的に両立させ、両者の均衡の中で政を進める事が必要であったのでは無いかと考えます。

頼朝・政子と泰時のイメージイラスト

ナノバナナ2作画
※御家人それぞれの家紋は、頼朝が自身の配下個々を見分ける為に命じて付けるようになり、頼朝自身は無紋だったとされています。(頼朝の家紋が「笹竜胆」紋とするのは俗説)

つまり私は、「権威(天皇)と権力(世俗勢力)の分離」という統治思想は、泰時が新しく思想を構築導入したのでは無く、「『鎌倉(武家政権)を存続させたい』と願い、必死に立ち回っていた」結果自然に醸成されたと見ているのです。

これは、私の藤原不比等像とも共通しますが、私は、二人とも真面目で物事に一生懸命に取り組む人柄を感じます。

ところで、御成敗式目をはじめ、泰時の統治には、律令制を参考にした跡を大方の歴史研究者が認めていますが、それは、不比等の頃から続く名家の出自であり、明経得業生で、後に明法博士となった大江広元の存在があったのでしょう。

こうして、不比等が苦労して築いた「皇統(天皇)を唯一の権威とする思想」は泰時に受け継がれ、律令制は武士の世に相応しい形に再定義されましたが、「徳治主義」を基本とした国家統治の精神は御成敗式目等に活かされたのです。

さて北条泰時に辿り着いた私は、その後、その思想的源流を求め平清盛・源義家の事蹟や藤原氏の摂関政治を調べて、遂にキーマン藤原不比等に到達しました。
また、不比等や泰時が護ろうとした「皇統(天皇)権威」の実体を探ろうと上古・伝承の時代、更には神代について調べるようになりました。
こうして私は、どんどん日本史に嵌まり込みました😅
勿論、戦国時代や幕末維新も面白いのですが、私の場合、日本史の思索をする際の基本は常に対「国体思想」となります📚

ところで、不比等と泰時には、「真面目さ」

、「徳治主義」といった共通点があると書きましたが、違いもあります。大きな違いとして...
①出自の貴賤
不比等は、幼い頃弱い立場に立たされていたとは言え、神代から続く名門中臣氏出身であり、父鎌足は、大化の改新の第一の功臣でありました。
一方、泰時は前述の通り東国武士団の一豪族の後継に過ぎませんでした。
②権力掌握有無
不比等は、国史編纂や律令導入に名を遺しますが、意外にも生存中に権力掌握はしておらず、権力は天武帝・持統帝や親王が握って政をしていました(皇親政治)が、泰時は政子の死後に権力を掌握し、自らの責において政をしています。
③後継者の優劣と政治状況
不比等は「藤原四兄弟」と呼ばれる武智麻呂、房前、宇合、麻呂と4人の男子を設けましたが、4人は前述②の皇親政治を担っていた長屋王等と熾烈な権力争いを強いられ、次第に不比等の国体思想や統治理念は失われ、「自家第一」の考えしか遺りませんでした。(不比等が大切に思った皇統が、自ら権威を危機に晒したとも言えます。)
一方泰時は、嫡男時氏、次男時実に先立たれましたが、時氏は子沢山で、特に幼い頃より聡明だった時頼を時氏死後、手元に置き傅育して帝王学の一環として自らの思想

、理念を継承させる事が叶いました。政治状況としても、最早幕府の力は全国に及び

、その幕府権力も泰時に集中していて、三浦氏を除けば、対抗出来る勢力も無く、時頼が祖父から受け継いだ思想・理念を実践出来る環境が整っていました。

泰時と時頼イメージイラスト

ナノバナナ2作画
※庭で犬を追い掛けているのは、3才年上の兄経時(第4代執権)をイメージしました

ここで、泰時と時頼の評価を紹介しますが、泰時は「日本史上最高の名君」と言える位に評価が高い人物で、同時代の権中納言勘解由小路経光卿にあっては「幕府の敵方」であるにも関わらず泰時を「古代中国の堯舜に比肩する」として、最早聖人君子扱いですし、南北朝の後醍醐帝側近筆頭で歴史学者の北畠親房公もあの「神皇正統記」に、「大方泰時心ただしく政すなほにして、人をはぐくみ物におごらず...」と記して讃えています。
一方、時頼は、「いざ鎌倉」という言葉の由来となった能「鉢の木」で描かれるような民情視察の「廻国伝説」を東日本各地(特に関東地方)に遺した人物であり、
質素かつ堅実で、宗教心にも厚い人物であった事から禅僧を中心に高い評価がありますが、一方で強権を発動して得宗独裁体制を現出した事から、否定的な意見(本居宣長や新井白石)もあり、現代では強権と撫民(徳政)を使い分けた人物とされます。
(東京大学名誉教授石井進博士、東京大学史料編纂所教授高橋慎一朗博士ほか)

私は、泰時は思想・理念家で、時頼はそれを実践、浸透させた実務家なのかと考えています。

私は、この二人がいた事により、不比等の「皇統(天皇)を唯一の権威とする思想」が護られると共に、「権威(天皇)と権力(世俗勢力)の分離」という令和の現代まで続く日本独特の国体が醸成、定着したのだと考えています。


それでは今回はこの辺りで失礼致します🙇