【起稿2025年9月13日記事】

※この記事で引用した全ての画像は著作権に配慮し削除しましたm(_ _)m



おはようございます🙋

今朝の東京は曇天で、雨は上がっていますが、はっきりしない空模様です😓

さて皆さん、今日は「白雄忌」です😊

「白雄忌」は、江戸時代中期~後期の俳人で、衰退期であった蕉風俳諧(松尾芭蕉系譜の俳句文化)の復興に努め、与謝蕪村らと共に、「天明中興五哲」や「天明六俳客」の一人とされる、加舎白雄の忌日です☝



加舎白雄(1738年-1791年)
※画像は借用いたしましたm(_ _)m

白雄は、信州上田藩士加舎家の二男として、江戸深川に生まれました。
現代では、松尾芭蕉と言えば俳句を今日のような文芸に高めた人として誰でも知っていますが、それが周知されるのは江戸後期の白雄らの活動によってです。
白雄は蕉風の俳句を正統なものとし、その復興と主情的な俳句をもって新時代の俳風を打ち立てた人です。

白雄は本名を吉春と言い、父と兄は上田藩士でしたが江戸詰めが長く、白雄は19歳の折り、初めて上田に移住しました。父が他界した16歳頃に俳句を知ったようですが、本格的に俳句を作ったのは、1765年に江戸日本橋の俳人東海坊(松露庵)烏明に入門してからで、特に烏明の師白井鳥酔の感化を受け、蕉風復興に力を注ぎました。

俳句は庶民文芸といわれますが、当時長野県では俳句をたしなむ人が少なく、芭蕉が県下を旅した折も、これを迎える俳人はほとんどいませんでした。白雄は芭蕉の来遊した姨捨に句碑を建てることによって、芭蕉の復権とその句風を継承する俳人たちを育てたのです。白雄の指導は、俳句だけではなく和漢の古典や歴史、動・植物の知識から文字のくずし方まで、教養全般にわたり、地方の庶民文化を根底から支えるものでした。

人恋し 火灯し頃を 桜散る



信州上田城址に建つ加舎白雄の句碑

(1772年に大和吉野で詠んだとされる)

※画像は借用いたしましたm(_ _)m


白雄は1769年、師烏明から独立を許され、信州上田において「田毎の春」を出版しました。

その後、蕉風俳諧を広めるために広く全国を巡り多くの俳人に接しているうちに俳句に対する見識も高まり、入門する人も多くなりました。それを妬んだ烏明は、1775年、鳥酔の七回忌に白雄を破門します。

白雄は、松露門を破門されると江戸を去り、自身の門人を引き連れて諸国を行脚しましたが、1780年に江戸日本橋鉄砲町に「春秋庵」を開いて自立し、関東に一大勢力を築き、多くの門人を育成しました。
また、1788年には、芭蕉百回忌句会を催し、蕉風復古者として認知されました。その後門人は4,000人を数え
、俳人として名を知られた者だけでも200人以上いたと言われています。

では加舎白雄の句を3句...

夏山や 青田を渡る 風の音
      (田毎の春)

秋来ぬと 見えてや白き
雨の月
      (田毎の春)

月影や 稲妻遠く 秋の夜
      (田毎の春)

最後に、現在は身障で出掛けられない私の身の上と、妻娘所縁の信州旅行の想い出を込めて、「白雄忌」を季語に創った自作俳句です...

白雄忌の 朝の爽風 山想う



浅間山と上田平(妻娘所縁の南信も良いのですが、私は、東信の千曲川対岸からの浅間山の遠景も好きでした😢また、行きたいな~)
※画像は借用いたしましたm(_ _)m