【起稿2025年8月27日記事】

※この記事で引用した全ての画像は著作権に配慮し削除しましたm(_ _)m


おはようございます🙋

今日も東京は晴れて暑い一日となりそうです🌞

さて、今日は「益軒忌」です。
「益軒忌」は、健康法指南書「養生訓」で知られる江戸時代の本草学者、儒学者の貝原 益軒の忌日です。



貝原益軒(本名貝原篤信1630年-1714年)※画像は借用いたしましたm(_ _)m

福岡藩主黒田氏は備前にルーツが有りますが、貝原益軒の祖先は、お隣の備中一の宮吉備津神社の神官で、祖父の代より黒田氏に仕えたようです。

貝原益軒は、黒田藩の祐筆であった貝原寛斎の五男として福岡城内で生まれましたが、父の都合で転々と住所を変え、幼少年期には貝原家の知行地だった福岡県飯塚市で過ごしました。

益軒は、1648年18歳で福岡藩に仕えましたが、1650年2代藩主黒田忠之の怒りに触れ

、7年間の浪人生活を送ることとなりました。


しかし、1656年27歳の時に3代藩主光之に許され、藩医として帰藩し、翌年に藩費による京都留学で本草学や朱子学等を学びました。
7年間の留学の後、1664年35歳の時、帰藩し、150石の知行を得て、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応を任され、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担いました。

また、藩命により「黒田家譜」を編纂し、1688年には藩承認の元、「筑前国続風土記」の編纂を始めました。

益軒は1699年に70歳で役を退くと、更に著述業に専念し、著書は1712年に上梓した『養生訓』を始め、生涯になんと60部270余巻に及びます。
退役後も藩内を隈なく巡検して『筑前国続風土記』の編纂を続け、1703年についに藩主に献上するに至りました。



※画像は借用いたしましたm(_ _)m

益軒は多くの著述を残し、経学、医学、民俗、歴史、地理、教育などの分野で多くの著述を残し、オランダ陸軍軍医でドイツ人博物学者のシーボルトから「東洋のアリストテレス」と絶賛されるほどの、学問全般に渡る先駆者的業績を挙げました。

「養生訓」は、貝原益軒が他界する2年前の83歳の頃に認めた書物です。
古今東西の「養生」の術を研究し、自身で実践した結果から、後世に伝えるべきものを紹介したものです。

「養生訓」には、医学の発達した現代に読んでも唸らされる様々な事が記載されていますが、貝原益軒の養生法(健康法)の「さわり」を紹介します...

①内なる欲望と外なる邪気
の除去
養生法の第一は、自分の身体を損なう物を除去する事である。
身体を損なう物とは内から生ずる欲望と外からやって来る邪気の事である。
前者は、飲食の欲、好色の欲、眠りの欲、言語をほしいままにする欲や、喜・怒・憂・思・悲・恐・驚の七情の欲をいう。
後者は、風・寒・暑・湿の天の四気をいうのである。

②心を平静にして徳を養う
心を平静にし、気を和やかにし、言葉を少なくして静を保つ事は、徳を養うとともに身体を養うことにもなる。

③唾液を大切にする
唾液は身体の潤いであり、血液となるものである。
草木も潤いが無いと枯れる。
そのように唾液は大切なものである。唾液は内臓から口中に出てくる。大切にして、吐いてはいけない。尚遠くへ吐いては更に悪い。体に力がいるので気が減るからである。

④食後の口内を清潔に
食後には湯茶で口中を数回すすぐのがよい。口の中を清潔にし、歯にはさまったものを取り去ることができる。牙杖(楊枝)を使うのはよくない。

⑤酒は天の美禄
ほどよく飲めば陽気を助け、血気を和らげて食物の消化を良くし、心配事を取り去り、興を生じてたいそう利益になる。
ところが、多く飲むと人を害する。(略)たとえば水や火は人間をよく助けるが、同時に災いをもたらすようなものである。

⑥膝から下の健康法
膝から下の、脹ら脛の表と裏とを、他人の手を借りて何度も撫で下ろさせ、さらに足の甲を撫で、その後は足の裏を多く撫でて、足の十指をひっぱらせると、気を下しそして循環させて落ち着く。自分でやるのは最も良い。

⑦衛生の道ありて長生きの薬なし
養生の方法はあるけれども、生まれついていない寿命を長く保たせる薬は無いという意味である。養生とはただ生まれついた寿命をよく保つ道である。