自分のエネルギーのマスターになる、なんてテーマを設定したせいか、とんでもない100日の後半の始まりになりました。
ついこの前7月24日に100日ブログ50日目になって、改めて「自分のエネルギーのマスターになる」とは、というブログを書いた後に、それまでの生き方をひっくり返されるような出来事が起こったわけですから。
緊急入院して翌日カテーテル検査を受けそのまま治療ができたらする、という話を聞いた時、まあどんなにそう難しくない手術だったとしても、なんと言っても心臓の太い血管の治療ですから、このまま死に至ることもあるのだなと思いました。
それに、血管はほぼ詰まった状態で、これでそれほど症状が出ていなかった方が不思議なくらいだったみたいです。
入院してからすぐに点滴で血液をサラサラにする薬を入れ続けていました。今すぐにだって心筋梗塞を起こす危険があったわけです。
それにたとえ今回良くなっても血管が詰まりやすい体質を持っているのですから、どうしても再発の危険性もあります。
これまで、そんなことはつゆ知らずに能天気に過ごしてきたのがこの時を境に一変してしまいました。
それでも気がかりなことを一つ抱えていて、そのことだけはなんとかしなければという思いから、スマホを使ってその後処理を、具合が悪い体を抱えながら、入院が決まってからも検査を待ちながら、病室に入ってからは横になったまま文章を書き続けていました。
今から思えば死にそうな病を抱えているときにあんなことしてはいけなかったかもしれませんが、何かに突き動かされるようにしてそれを完成させ夫にその後のことを託しました。
一つの事が気になるとあるとこまで行かないと気が済まない、という性格が出てしまったわけですけど、それだけではなかった感じで、何か自分の根源から湧き起こるその人への愛だったんだじゃないか、と思います。そこのことからはもう手を引くことにしていたので最後のバトンを渡したかったという感じです。
ところで、ああこれでもしかしたら人生終わるかもしれないんだなあ、と思った時、でも、案外心は静かで、気がかりだったのは作品とかやりかけのガラスとか、雑然とした家をそのままにしていなくなってしまったら夫や子供たちは困るかなあということだけでした。
自分のことについては、目の前のことにいつも一所懸命取り組んできたおかげで、悔いは何もないな、と心から思えました。
まあガラスの作品がここで終わってしまうのはちょっと残念ではありましたが、それでも、もしそうならどうしようもないですからね。
この先少し時間が延びたからってどれだけのものができるかもわからないし。
とにかく行き当たりばったりで、あちこち手を出しては中途半端に終わったことの方が多いくらいだけど、それでも、その時その時情熱を傾けてやるところまではやってきたな、という自負はあります。
死んだら死んだでしょうがないな、と思えたのでした。
なんとか手術は先生の素晴らしい技術のおかげでうまく行って、心臓の血はちゃんと流れるようになったみたいです。
これからはせっかく治してもらった血管をまたつまらせないよう、気をつけて暮らさなければいけません。
今回は沢山の人に支えられて生かされていることを思い知りました。
そのことをいつも心して、残りの人生を大切に生きていきたいと思います。
カテーテルを入れた右腕
点滴を入れた左腕
これらの内出血がきれいになるまでは少しおとなしめに暮らしていようと思います。
正法眼蔵 第六巻より(増谷文雄現代語訳)
[遍参]
いま遍参の常識を超えた子の遍参をきわめつくしてみると、それはいうなれば葫蘆(ころ)が葫蘆をおどり超え、ころの頂上を踏んでそこでちゃんと仏を選んでいると言ったところで、それはもう久しい昔からのこと。仏祖の命脈は糸のように、葫蘆が頃を遍参して尽きるところがない。つまり、一本の草を丈六の仏身として建立する、それが遍参だというのである。
*葫蘆はひょうたんのこと
よい1日を💕
100日ブログ第10期ー自分のエネルギーのマスターになる55
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