わたつみの道 | 五島高資のブログ

五島高資のブログ

俳句と写真(画像)のコラボなど

わたつみの道

  対馬滞在記
                        五島高資


                      

1. 序章

 

 対馬は島国にして山国である。太古、朝鮮半島と九州の間の地峡が海没したとき、辛うじて没することを免れた山巓が対馬である。連なる尾根は岬となり、山峡は溺れ谷となった。そして「山険しく深林多く道路は禽鹿の径の如し」と『魏志』東夷伝(倭人伝)にも記されているように、平地の多い壱岐と違って、対馬では稲作文化とともに狩猟漁撈といった縄文的生活文化が根強く残ることになった。また、朝鮮半島からの北方系大陸文化と黒潮の支流である対馬暖流によってもたらされた南方系海洋文化の双方が、絶海と峻嶺という地理的条件のもとによく保存されており、対馬はまさに原日本の風土を現在に残すタイムカプセルなのである。

 その対馬の病院に内科医として赴任することになった。自治医科大学を卒業した医師は日本全国に散らばる医師不足に悩む僻地の医療に従事することになる。わたしは長崎県の離島医療に従事すべく、対馬いづはら病院への勤務を命ぜられた。

 

                  

2. 玄界灘

 

 平成七年五月三十日夕刻、わたしは博多港から対馬行きのフェリーに乗り込んだ。ビルの灯が点りはじめた福岡市街を背に、しばらく甲板に立って夕焼けの彼方に見えるはずもない対馬に思いを馳せていた。志賀島を過ぎたあたりから揺れが強くなってきた。波風の強い玄界灘は古代から海上交通の難所であった。

 

  海峡を鮫の動悸と渡るなり     高資

 

 防人もまたこの玄界灘を渡った。天智天皇二年(六六三)、百済救援のため出兵した日本軍が白村江の戦に大敗したのを機に、唐・新羅連合軍の来襲に備えて主に東国より九州に兵士が徴集されたのが防人の始まりである。その一部およそ二百人が対馬に駐屯したという。『万葉集』の東歌に「対馬の嶺は下雲あらなふ上の嶺にたなびく雲を見つつ偲はも」とあり、故郷に残してきた妻を偲ぶ防人の歌が残されている。その当時、東国から対馬への赴任はおそらく現在では海外単身赴任いやそれ以上の課役ではなかったろうか。命がけの対馬への途次はもとより、田畑の少ない対馬にあっては食糧も不足気味で、「且耕且戦」といわれる国境防備はかなり厳しい環境にあったと思われる。

         

3. 厳原

 

 対馬厳原港に入港したのは夜十一時を過ぎていた。港の中は外海とは違い波もなく、船はなめらかな漆黒の海面をゆっくりと進み着岸した。島での第一歩は闇夜から始まった。

 

  ぬばたまの闇夜に滑り込む対馬     高資

 

 遠いところへやってきたという感慨は距離的な問題というよりは、むしろこの島の闇夜に温存され続けている原日本的あるいは原アジア的風土によるもののような気がした。夜も更けてすっかり眠り込んでしまっている厳原の街を予約していたホテルへと向かった。あとで知ったのだが、『街道をゆく』の取材で対馬を訪れた司馬遼太郎もやはり深夜、厳原に上陸し、わたしと同じく対馬交通ホテルに泊まっている。そのホテルの敷地の一角に、「あろおどん」という小さな祠がある。その祠はホテルの玄関前の駐車場に祀られており、ただでも狭い駐車場に有に車一台分のスペースを占めている。

 聖武天皇神亀年中(七二四~七二八)、太宰府は、筑前の宗形部津麻呂に対して、飢饉に苦しむ対馬の防人への食糧輸送を命じた。しかし、津麻呂は高齢を理由に筑前志賀の白水郎荒雄にその代任を依頼した。荒雄は津麻呂との友誼から快くその任を引き受け、五島列島福江島の三井楽を経由して対馬を目指した。わざわざ南へ遠回りして対馬からおよそ二百キロも離れた五島から出発した理由には、当時、三井楽は「みみらく」と呼ばれ、遣唐使船の日本最後の寄港地として港湾施設が整っており船舶の調達が容易であったことや海流の問題などが挙げられる。その三井楽を出発して間もなく、荒雄らの船団は不運にも暴風雨に遭遇した。そして防人への食糧もろとも荒雄らは海中に沈んでしまった。その荒雄がこの「あろおどん」として祀られているのだという。対馬のために命を擲った荒雄は、千年以上たった今でも島民の心に生きていたのである。また「荒雄らを来むか来じかと飯盛りて門に出で立ち待てど来まさじ」など筑前の国守山上憶良が詠んだとされる哀歌が『万葉集』に「筑前國志賀白水郎歌十首」として残っている。因みに、荒雄が最後に立ち寄った三井楽はわたしの故郷福江島の北西にある港町である。

 

  暖流へまぎれる海人と玉の汗     高資

 

 最澄もやはり福江島玉之浦の白鳥神社で航海安全の祈願をして渡唐したが、まもなく暴風雨に遭遇し、四船中、最澄の乗った第二船のみが辛うじて明州に到着した。最澄は帰朝の際、再び福江島に寄港し、お礼のため白鳥神社に参篭する予定であったが、あいにく船が流されて対馬に漂着し、そこから太宰府を経由して帰京することになった。そのため、のちに最澄は自ら造ったとされる十一面観音像を白鳥神社に奉納した。因みに、空海もまた最澄と同じ船団で渡唐したが、空海の乗った船は南に流され、福建省の海岸に漂着した。一行は難民に間違われたりもしたが、空海の墨筆と文才から、日本からの使節であることが認められ、無事、長安へ辿り着いた。青龍寺で両部密教の伝法灌頂を受けて、数々の密教教典などを携えた空海が帰国するに際して最初に踏んだ日本の地は五島の玉之浦であった。玉之浦には西の高野山と称される大寶寺があり、そこで空海は帰朝後、初めての参籠を行ったと言われている。

 さて六月一日から対馬いづはら病院での勤務が始まった。対馬の東南に位置する厳原はかつて宗氏十万石の城下町で、現在でも対馬の行政、経済の中心地である。厳原でのわたしの宿舎は、飲食街に近い田渕というところにあった。聞くところによると人口に対する厳原のバー、スナックなどの飲屋の数は日本一らしい。人口一万六千人の町に何と百軒近い飲屋があるという。気風のいい対馬人の性格は、玄界灘の荒波に命を懸ける漁師気質に通じているのだろう。残念ながら下戸のわたしには飲屋に近いという恩恵に与ることはあまりなかったが、細い路地に褐色の頁岩を積み上げた防火塀、武家屋敷、古い商家などが残っている城下町のノスタルジックな雰囲気には十分陶酔することができた。

 毎朝、宿舎の裏山の細い切り通しを抜けて、海岸道路を野良崎という岬にある病院まで通うのであるが、道中眼下に広がる日本海から朝日が昇ってくる光景は絶景であった。よく晴れた日には遠くに皿を伏したような壱岐の島を見ることができた。壱岐には客死した河合曽良の墓が残っている。

 

  飛べそうな気がする朝焼けの岬     高資

 

 厳原は南方に港が開ける以外は三方を山に囲まれており、その狭い平地を中心に住宅が山の中腹までへばりつくように建っている。田渕の宿舎を出て、街の中心を流れている厳原本川を渡り、金石川に沿って西へ行くと、右手に宗氏の居城金石城の城壁と櫓門が現れる。城壁は黄褐色で長方形の頁岩が水平に積み重ねられており、まるで大小の煉瓦でできているように見える。明らかに日本本土の城郭とは異なった趣を呈している。金石城にははじめから天守閣はなく、現在は荘重な二層の櫓門のみが残っている。

 城壁の脇を流れる金石川に沿ってさらに上流へと歩くと、立派な朱塗りの仁王門へとたどり着く。宗家菩提寺の万松院である。山門を抜けると正面に本堂があり、その奥の間に宗家と徳川歴代将軍の位牌が安置されている。朝鮮との外交において江戸幕府の全権代行を委任されていた対馬藩の徳川家への帰順の証左である。本堂を出て左へ回ると裏山の宗家歴代の墓苑へと続く長い石段がある。灯篭の続く石段を上り詰め、渓流に架かる石橋を渡ると、杉の巨木が生い茂り、白壁の塀に囲まれた藩主一族の墓域に至る。墓苑というよりはこの世の極楽である。歴代藩主の巨大な五輪塔は、眼下に見える厳原の町を静かに見守り続けている。

 

  参道のきわみや常盤木の落葉     高資

 

 わたしは地元の「くちなし」という俳句結社からたびたび句会へ招かれた。句誌「くちなし」創刊は、町内の私立病院院長であり、ホトトギス同人でもあった古藤一杏子氏によるものであったが、残念なことに数年前に氏は他界され、現在は、ご息女の古藤節子さんが主宰している。古藤さんのお宅は厳原本川沿いの道から今屋敷通りに入ったところにあり、かつては皇族方の対馬でのご宿泊所となったという書院造の邸宅で、高麗時代の地蔵半跏像をはじめ朝鮮伝来の国宝級の仏像なども多く残っている。

 句会は、手入れの行き届いた山水に面した奥座敷で行われた。庭園には、かつて来島した高浜年尾氏の句碑が建っている。わたしも俳句の初学をホトトギス同人の先生から教わったのだが、現在は句風もいわゆる典型的な花鳥諷詠ではない。「くちなし」は花鳥諷詠を旨とするホトトギス系の結社なので当初は不安もあったが、連衆の皆さんのおおらかな趣向のお陰で楽しい句会であった。特に古藤さんには色々とお世話になった。対馬で穫れた新米や蜜柑を頂いたりと、独身ひとり暮らしのわたしには有り難いことであった。

 厳原にいたときは、こんなこともあった。
 あるご婦人が腹痛のため入院し、私が主治医になったのだが、病状が回復して間もなく、そのご主人から、「先生にお会いするのは、前から分かっていました。」と言われたのである。今考えてみると、ちょっと引いてしまいそうな話だが、その時は、全然、違和感がなかった。実は、そのご主人は、厳原で一番大きい八幡神社の神主だったのである。そして、自ら現代語訳したという『古事記』をそのとき貰ったことを憶えている。ちなみに、厳原の八幡神社の主神は、もちろん、応神天皇であり、その母は、神宮皇后である。神宮皇后が新羅征伐の際に対馬を訪れたとき、応神天皇を身籠ったと対馬の伝承では言われている。その上で身籠もったとされる石が対馬の南端にある豆酘という集落に残っている。豆酘のことは、後でも触れるが、そこの出身の城田吉六氏も私が外来主治医をしていた。氏は元純眞短期大学教授であり、赤米の研究で有名な民俗学者でもある。直に対馬の伝承を色々とお伺いすることができたことはまたとない幸せであった。

 

               

4. 下原

 

 わたしは対馬いづはら病院に勤務する傍ら、週に一回、下原、久根両地区にある普段は無人の診療所に出張していた。下原は厳原市街から西方に有明山を越えたところに位置する山間の小さな集落である。戦後一時期、亜鉛鉱山で賑わったが、昭和四十八年の閉山以降、急速に過疎化してしまった。

 下原での採鉱の歴史は古い。天武天皇三年(六七四)、対馬国司守忍海造大国が対馬で産出した銀を献上したこと、そしてこれが日本で初めての銀産出であることが『日本書紀』に記されている。しかし、現在では廃坑となった亜鉛鉱山の朽ちかけた建物が山裾にへばりつくように残っているばかりである。赤茶けた製錬所の下には佐須川という透き通ったきれいな川が流れている。川沿いには急峻な岩山が散在し、どことなく中国の桂林を思わせる。そして、その下流域には田畑の少ない対馬でも有数の穀倉地帯が広がっている。今でこそ青々とした稲が風にそよいでいるが、製錬所からの鉱滓に含まれたカドミウムにより、この一帯の田畑が汚染されていることが昭和五○年に発覚するという経緯があった。汚染された田地はおよそ六百ヘクタールにも及び、数年に亘る土の入れ替えという気の遠くなるような作業を要した。対馬は良質の土に乏しく、客土には壱岐から運ばれた土が用いられた。

 さて診療所での外来診療が終わると、わたしは在宅診療のため数軒のお宅へ伺っていた。はじめは、在宅療養ができるためには家族の協力が不可欠であり、若者の少ない過疎地での在宅医療は至難の業と思われた。しかし、この対馬では町と病院の協力で地域医療ネットワークが整備されており、医師、在宅医療専門の看護師や保健師などの在宅医療チームの連携が図られ、自宅療養中の患者や家族のサポートが円滑に行われている。脳梗塞後遺症などの慢性疾患はもとよりターミナルケアの場合も多い。実際に患者さんの家に行くと病院では気づかなかったものがたくさん見えてくる。仏壇、神棚、遺影、家族が集まる茶の間、ふすまの隙間から見える海、山、田畑、牛小屋など患者さんにとってはみななつかしいものに違いない。そこで生まれて死んで行く。実に自然な人間の姿がそこにはあるような気がした。

  

           

5. 小茂田

 

 佐須川は田畑を抜けて東シナ海へとそそぎ込む。その河口に小茂田という小さな漁港がある。厳原港は日本海に面しているが、この小茂田港は東シナ海に面している。つまり、南北に細長い対馬は東に日本海、西に東シナ海を分ける分水嶺ならぬ分海島なのである。港の北側には拳大から人頭大の丸石ばかりの海岸が広がっている。夕方には東シナ海の水平線にたぎり落ちる夕日を見ることができた。落日の彼方は中国である。

 

  右手より溶かす入り日の鉏の海     高資

 

 神功皇后摂政五年、人質として来日していた新羅の微叱許智伐旱が帰国を許され、葛城襲津彦に付き添われて新羅へ帰る途中、「共に対馬に到りて、の海に宿る」と『日本書紀』に記されている。この金且の海は朝鮮海峡を指し、とは鋤のことであり、農耕や鉄文化などが渡来した海のシルクロードであったことが指摘されている。しかし、この海のシルクロードは大陸から豊かな文明をもたらしただけではなかった。

 文永十一年(一二七四)十月五日夕刻、九百艘の軍船が小茂田浜に襲来した。元寇である。直ちに対馬守護代宗資国は八十騎の手勢を率いて小茂田浜へ出陣した。しかし相手は四万の大軍である。それでも二時間にも及ぶ激戦を繰り広げ、ついには助国はじめ全員が討ち死を遂げた。その宗助国の御霊が小茂田浜神社に祀られている。参道を歩く玉砂利の音に死よりも尊いものの響きを聞く思いがした。

 

    蜻蛉やシナ海という最期あり     高資

 

                 

6. 阿連

 

 小茂田浜から北へ十キロほど行くと、阿連という集落がある。ここには「オヒデリサマ」という太陽を祀る天道信仰が残っている。農耕は太陰暦と関係が深いため壱岐では月読尊など月神が祀られるのに対して、日中に行われることの多い狩猟漁労が中心の対馬では太陽が祀られることが多い。干上がった沢伝いに昼なお暗い森の中に分け入ると、椎の巨木の傍らに小さな遥拝所がある。社殿はなく森や山自体がご神体であるいわゆる神籬である。現在でも神職であり雷大臣の末裔とも言われる橘家と氏子たちによって祭祀「オヒデリサマ」が守り続けられている。

 

  椎の木を祀りまぶたの裏に入る     高資

 

               

7. 久根

 

 一方、小茂田浜から南へ十キロほど行くと久根という集落がある。ここには、わたしが隔週で診察に出向いていた久根診療所がある。実は、この診療所の窓から見える山の中腹に、安徳天皇陵と伝えられる墳墓が祀られている。安徳帝と言えば、壇之浦の戦いにて、「今ぞしる みもすそ川の おんながれ 波の下にも 都ありとは」 と詠んだ平二位の尼前とともに海中に没したとされているから、はじめは、何かの間違いだろうと思っていた。ところが、ある日、診察が終わってから、その安徳天皇陵があるという小高い山に登ってみることにした。診療所の向かいにある農家の牛小屋の脇を抜けて細い山道を登っていくと尾根伝いに石段が現れる。その石段を登り小さな鳥居をくぐると社殿はなく石垣に囲まれた社叢のみがあり、御陵への入口は白い格子戸によって閉ざされていた。もちろん、高知県越知町の安徳天皇潜幸伝説のような口碑は多いが、格子戸の傍らに「宮内庁管理地」と書かれた立て札が立っていたのには驚いた。確かに絶海の対馬のさらに山間のこの地ならば源氏の追手もそう易々とはたどり着けそうもないなと妙に納得しつつ、安徳帝のここでの生活は如何なるものであったろうかとしばし思いを巡らした。

 

  わたなかに都ありけむ合歓の花     高資

 

               

8. 豆酘(つつ)

 

 久根からさらに南へ十キロほど行くと対馬の最南端に位置する豆酘という集落に至る。 雲刺山を越えると豆酘崎と神崎という二つの岬に抱かれた青く明るい海湾が現れる。木造の豆酘小学校の脇から町中を抜けて細い路地を田圃の方へ向かうと龍良山につづく森が現れる。高御魂神社の神籬である。ここに祀られている高御産巣日神は、『古事記』や『日本書紀』における天地創造、万物生成を行う造化三神の一人として日本創成に深く関わる神である。また古代、稲が日に感光し米が生じると信じられ、高御産巣日神は稲に日をむすぶ神として農耕生産の神でもある。

 神社へ向かう小径の左側に古代米である赤米を作っている神田がある。今でもこの赤米を神米として栽培しているのは、岡山県総社市新本と鹿児島県種子島茎永とここ対馬の豆酘だけだという。現在の日本における栽培種とは違って、赤米は文字どおり米自体も赤いが、その稲穂もまた赤く、赤米の神田は他の稲田のなかでひときわ目立つ。収穫された赤米はそれ自体がご神体として祀られる。

 

  ひたすらに天地をむすぶ赤穂かな     高資

 

 この豆酘には、俳人の宇多喜代子氏をご案内したこともある。宇多さんは、赤米を自ら栽培するほど赤米に造詣が深い。実は、私が大学生の頃、「未定」という俳句結社の出版記念会に出席したときに、赤いご飯を頂いたのは憶えていたが、その時は、それが赤米だとは全然知らなかったのである。その時の赤いご飯が、宇多さんが自ら收穫した赤米だったと知ったのは、宇多さんから「対馬に行きたい」と連絡を受けたときであった。まさに奇遇であった。

 さて、対馬いづはら病院に一年勤務したあと、わたしは平成八年六月より対馬最北端の上対馬町比田勝にある上対馬病院へ転勤となった。

 

                                  

9. 美津島

 

 対馬は南北に長く、およそ百キロ離れた厳原と比田勝は島内唯一の国道382号線で結ばれている。岩盤の堅い対馬の道路工事は困難を極め、国道と言っても一車線の箇所が未だにいくつか残っている。厳原から二十キロほど北上すると数十メートルの断崖に架かる万関橋という赤い鉄橋にさしかかる。もっとも対馬は一つの島なのであるが、南北に細長いため、明治三十三年、旧帝国海軍により島の中央である美津島町に運河が開鑿された。その二つに分断された島を結ぶのが万関橋である。

 橋を渡りしばらく行くと道のすぐそばまで迫る浅茅湾の細い入り江がいくつも出現する。波が穏やかで水がきれいな入り江にはたくさんの筏が浮かんでいる。真珠の養殖である。対馬は日本有数の真珠生産地であり、特に玉調の浦は奈良時代から真珠の産地として知られ、真珠は都人の垂涎の宝物であったという。

 

                 

10. 豊玉

 浅茅湾を海岸沿いにさらに北上し、山中に入ると赤い大きな鳥居が現れる。鳥居をくぐり再び海岸へ下ると海中に一列に並ぶ鳥居が見える。満ち潮のときは海中に没し、海水が神社の社殿の下まで流れ込んでくる。この神社は彦火火出見尊と豊玉姫を祀る和多都美神社である。社殿の裏に回ると鬱蒼とした森の中に直径二メートルほどの巨岩があり、豊玉姫の墳墓と伝えられている。周知のように彦火火出見尊と豊玉姫との間に生まれたのが鵜葺草葺不合命であり、その子が神武天皇である。記紀神話の舞台はもっぱら南九州とされているが、対馬ではこの神域こそが記紀神話の舞台と信じられている。彦火火出見尊つまり山幸彦が大陸からの渡来民族だとすると、朝鮮海峡を渡り、まず上陸する対馬において豊玉姫の父である大綿津見神が率いる「倭の水人」と出会ったとしてもおかしくはない。この付近では弥生時代の遺跡が多く見付かっている。

 

  わたつみを祀るや蒼き蒙古斑     高資

 

                 

11.

 

 和多都美神社のある豊玉町を過ぎると、峰町に入る。ここにもやはり海神神社という神社があるが、祭神は八幡神つまり応神天皇である。社伝によれば、神功皇后が新羅出征よりの帰途、対馬西岸の伊豆山に強い神霊を感じ、異国降伏のため神籬磐境を定め祀ったのが、対馬国一の宮・海神神社(旧官幤中社)の始まりとされている。かなり急勾配な石段を登っていくと、社叢の合間から紺碧の海が見える。海上は風が強いらしく白波が立っていた。

 

  蘇鉄から生まれ八重旗雲となる     高資

 

                

12. 上県

 

 峰町をさらに北上し、鹿見トンネルを抜けると上県町である。道は再び山中に入る。日本でも数少なくなった原生林に覆われた霊山御嶽の麓を横切る道はかなり細く昼なお暗い。しかし、シイやタブなどの照葉樹林の緑はどことなく鮮やかである。このあたりにツシマヤマネコが生息しているという。ヤマネコはもはや日本では西表島とここ対馬にしかいない。しばらく、宮沢賢治の『どんぐりと山猫』や『注文の多い料理店』の世界に紛れ込んだような錯覚に陥る。

 

  どんぐりを拾う光の重さかな     高資

  山猫がうつつをぬかす月夜茸     同

 

                 

13. 比田勝

 

 上県町の佐須奈を過ぎて北上し、トンネルを二つ抜けると対馬北部の中心地であり、上対馬町の首邑である比田勝に至る。やはり比田勝も厳原と同じように三方を山に囲まれた港町である。ここから韓国の釜山まではおよそ五十キロ足らずで、戦前は買い物や映画鑑賞のため多くの島民が朝鮮海峡を行き来したという。対馬から福岡までおよそ百四十キロであることを考えれば、釜山に行く方が容易であったことはいうまでもない。現在でも、比田勝港から小倉行きの定期フェリー以外に週一便の釜山行き高速艇が就航している。

 さて、わたしは普段は比田勝にある上対馬病院に勤務していた。以前勤務していた対馬いづはら病院は二百五十床、医師二十名あまりの大きな病院であったが、上対馬病院は九十床、医師八名の小規模な病院である。医師の数が少ないので、当直が週に二、三回はあったが、専門科目を越えてみんなが協力して診療に当たるというアットホームな雰囲気が性に合っていた。

 わたしが日直に当たっていたある日曜日、一人の少女が熱を出して来院した。病気は感冒で特に問題はなかったのだが、その少女は、たまたまその日、比田勝で開かれていた「芳洲塾」という日韓交流などの対馬独自の地域活動の会に講師として招かれていた上垣外憲一氏のご息女であった。「芳洲」とは、江戸時代、日朝善隣外交に尽力した対馬藩の儒者・雨森芳洲のことである。上垣外氏はその芳洲研究の第一人者である。芳洲は、外交の基本としてお互いの立場を尊重する「誠信の交わり」を説き、まず相手の言語、文化をよく知ることが大切であるとした。芳洲は朝鮮との外交を担当するにあたり、まず朝鮮語、中国語を学び、朝鮮の思想、政治、慣習に至るまで徹底して相手方を理解しようと努めた。至極当然のことではあるが、近代日本が前の大戦をはじめとして他国や世界に対して行った過ちにおいて、残念ながら芳洲の説く「誠信の交わり」は活かされなかった。二十一世紀はアジアの時代といわれるが、まさに古代から国境の島として近隣のアジア諸国と直に独自の交流を持っていたこの対馬から学ぶことは少なくないように思う。

 診察が終わって、芳洲のことなどいろいろとお話を伺ったお礼に、上梓したばかりのわたしの第一句集『海馬』を上垣外氏に恵贈した。ところが、しばらくして病院を出たはずの氏が再び診察室に走って戻って来た。ご息女の具合でも悪くなったのかと心配したが、そうではなかった。氏は息を切らしながら先ほどの句集を指さし、「この本のあとがきを書いているのは僕の大学の後輩だよ。こんなところで、夏石の名前を見るとは思わなかったよ。」といった。夏石氏とは、俳人で明治大学教授の夏石番矢氏のことである。

 『海馬』は、大学時代から対馬の病院に勤務していたころまでの俳句を集めたもので、海馬とは竜の落とし子のことである。五島列島で生まれたわたしは、幼い頃、夜の海岸で泳いでいて、竜の落とし子を捕まえたことを憶えている。また大学の解剖学の実習で海馬と名付けられた人の脳の一部を見た。その海馬はわたしたちの記憶を司っているという。対馬では、東シナ海を渡ってきた南風が原生林に覆われる龍良山系にぶつかり急上昇してできた八重旗雲から雷が発生する光景を見た。対馬に掛かる枕詞は「ありねよし」というが、この「ありねよし」の「ね」とはまさに雷雲を産み出す神聖なる龍神としての龍良山系の山々のことである。そうしたもろもろのことが『海馬』という題名の出自である。

 

                                   

14. 鰐浦

 

 わたしが比田勝に赴任したころ、病院へ続く坂道の並木に光をばら撒いたように咲く小さな白い花が目に付いた。木に吊された名札に「ヒトツバタゴ」と書いてあった。病院の職員から「ヒトツバタゴやったら、鰐浦にいっぱい咲いとるよ。」と聞き、週末に催されるという「ひとつばたご祭」を楽しみにしていた。ところが、あいにく病院の日直が重なっており、祭の前日に鰐浦に行くことにした。

 鰐浦は比田勝から北西に五キロほど行ったところにある小さな漁港である。鰐浦への峠を越えて目に入ってきたものは、港を抱きかかえるかのように峙つ山の斜面いちめんの目映い白い光である。ヒトツバタゴの別名「海照らし」とは、まさにこの一景に尽きる。この鰐浦は、朝鮮半島へ渡航する拠点として古典に見える「和珥津」である。港へ下ると左手に本宮神社があり、かつて神功皇后が御座船を繋いだという「ともづな石」が、皇后の行宮跡と伝えられるこの神社の境内に残っている。祭の前日だったので人もまばらで、かえってのんびりと散策することができた。

 

  海照らし山照らし魂照らすなり     高資

 

 鰐浦からの帰りは、韓国が見えるという小高い山に登ったが、あいにくぼやけた水平線しか見ることはできなかった。天気の良い日でも海面からの水蒸気で見えない日が多いらしい。しかたないので山頂のベンチでしばらくうたた寝していたら、「あら先生、何ばしよっと?」という声が聞こえた。びっくりして起きあがると、病院の婦長とそのご主人が散歩に来ていたのであった。その日は、朝鮮海峡に落ちる夕日を見届けてから帰宅した。

 その後、鰐浦にはたびたび訪れた。在宅診療の患者さん宅へ伺うと、採れ立てのヒジキやウニなどを頂いた。特に鰐浦のヒジキは巨大で、長さ数メートル、幅一センチくらいになる。

 

  日と月と束ねられたる鹿尾菜かな     高資

 

 鰐浦の沖には海栗島という小さい島があり、航空自衛隊のレーダー基地になっている。そこに百名足らずが駐屯している。朝鮮半島を望むこの地は今も昔も戦略上重要な位置なのである。鰐浦から北に突き出す岬には、かつて戦艦赤城の主砲が据えられていたという砲台跡が残っている。崖の下に開いた砲台内部への入口をくぐると、薄暗い廊下が幾重にも伸びている。赤錆びたパイプが並ぶ動力室の横を抜けると、そこだけ眩しく光る場所がある。天上の岩盤がくり抜かれた台座跡である。真上には大砲の代りに夏草に囲まれた円い空が覗いていた。

 

  昼顔を咲かせて消える巨砲かな     高資

 

                

15. 鳴滝

 

 さて、ここ上対馬病院でも厳原の時と同様に出張診療に出かけていた。わたしは、比田勝から東側つまり日本海側を南におよそ二十キロ下ったところの一重という漁村にある診療所へ通っていた。その途中、比田勝を出て一つ目の峠を越えたところに原生林に覆われた綺麗な円錐形の山がある。オロン岳という。オロンとは「おろち」つまり龍蛇神に由来する。その山の中腹に鳴滝という対馬最大の滝がある。仏炎苞をかかげる蝮蛇草に睨まれながら杉林を行くと小さな鳥居が現れる。その鳥居をくぐると照葉樹林へと植生が変わる。沢から流れ出た清流は、しだいに水量を増し、淵を抜けて右へ曲がると一気に落下する。滝壷への道を下ると、落差十数メートルの瀑布が立ち現れる。

 

  瀑布へとからだを運ぶからだかな     高資

 

               

15. オメガ塔

 

 鳴滝を過ぎてさらに南下すると舟志湾に出る。海湾と言っても陸地に深く入り込んでいて水平線は見えず、まるで湖である。その舟志湾に突き出た岬にオメガ塔は立っている。世界を八局で網羅する通信施設で、船舶が現在位置を確認するためのオメガ波を発信し、地上四百五十五メートルの高さ日本一を誇っている。

 

  龍天に岬にはオメガ塔立てり     高資

 

 わたしは対馬の地図を見るたびに、上空から見た島の形が龍の姿に似ていると思う。かつて烽火台があった上県町の千俵蒔山は目玉であり、舟志湾は口であり、比田勝港は鼻である。まるで龍が炎を吐くかのように、ちょうど舌のあたりに立つオメガ塔からは電波が発信される。その舌の付け根にあたるところに、その名も霹靂神社がある。神籬である朝日山古墳を背後に、その小さな社殿は海に向かって建っている。冬には大気より温かい海面から水蒸気が立ち登る。

 

  日本海入れて湯気立つ溺れ谷     高資

 

                

15. 舟志川

 舟志湾に流れ込む舟志川を遡り、道は山中に入る。しばらく行くと川の向こうに久頭乃神社がある。この神社は『津島亀卜伝記』に見え、かつては亀の甲羅で吉凶を占う亀卜所であったという。現在、亀卜神事は厳原町の豆酘に残っている以外はすべて廃れてしまった。河原から続く参道を通り、拝殿にて祝詞を唱えると社殿や周りの木々に反響して清々しい気分になる。さらに上流へ進むと河畔に紅葉の群生が現れる。このあたりにはよく対馬シカが現れるという。しかし、最近急増した対馬シカは特産の椎茸を食い荒らす厄介者となっている。〈奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の云々〉と風流ばかりも言っていられない。秋の「もみじ祭」には、仕留められた鹿の肉が振る舞われる。

 

  たまきわる紅葉且つ散るがらんどう     高資

 

             

16.

 やがて道は横坂の峠を越えて、琴という漁村に至る。まもなく右手に大きな銀杏の大樹が現れる。かつて港に入る船からはまるで小山と見紛うほどであったという。看板には「日本一の大銀杏」と書かれている。樹齢千五百年、周囲十二・五メートルの銀杏の木からはたくさんの気根が垂れている。皺だらけの幹に触れると、植物の持つ偉大な生命力が伝わってくる。おそらくこの地は風水でいう龍穴の一つなのであろう。

 

  空と海むすんで眠る大銀杏     高資

 

                 

17. 一重

 琴を抜けて城岳を越えると、やっと一重の集落に到着する。一重診療所のすぐ前の小さな港には、トロール船や烏賊釣船がひしめき合うように停泊している。この一重港は大陸棚の豊かな漁場に近く、季節風の影響の少ない風避けの港として今も昔も多くの漁船が立ち寄っている。診療所の隣には駐在所があり、偶然にもわたしの中学生時代の同級生が警察官の夫とともに住んでいた。はるばる対馬の地で再会するとは夢にも思わなかった。

 

  烏賊釣の火まで歩いて行けるかも     高資

        *

 対馬での二年間はあっという間だった。平成九年三月、わたしは母校の大学院に進学するため対馬を離れることになった。対馬を発つまさに三日前、友人に誘われて夜の鰐浦へ出かけた。潮騒だけが聞こえる真っ暗闇の向こうにきらきらと輝く光が見えた。まるで宇宙に浮かぶ未来都市のようなそれは確かに釜山の夜景であった。対馬に来て今まではっきり見ることができなかった韓国が手を伸ばせば掴めるくらい近くに見えた。

 初めて島に上陸したときは闇夜であったが、島を離れる日は、桜が咲き始めた明るい春の日であった。上対馬病院の仲間が見送るなか、わたしは比田勝港から小倉行きのフェリーに乗り込んだ。港を出ると甲板から殿崎のヘリポートが見えた。かつて急性クモ膜下出血の患者さんを本土の病院へヘリコプター搬送したことなど思い出した。つらい出来事もあったが、対馬での生活は、わたしにとってかけがえのないとても貴重な体験であった。そして様々な縁にも恵まれた。

 薄れゆく対馬の島影が一瞬しかし確かに龍の背中に見えた。

 

  ありねよし龍の背中は山ざくら     高資

       了