俳句における「切れ」小論 | 五島高資のブログ

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 「切れ」とは、俳句の詩的創造における最も重要な詩法である。そして、その機序には音数律的要素と意味的要素が深く関与している。そもそも五七調定型自体においてすでに休止拍が内包されており、大凡そこにおける一句の分節化という形で「切れ」は発生する。(「切れ字」はそのための一つの措辞に過ぎない)しかし、この分節化による休止が単にリズム的ポーズに終始するならそれは散文における読点の効果と変わらないことになる。つまり、一句の分節化が「切れ」として詩的創造に関わるためには、散文を裏打ちする二項対立的観念や既成概念ひいては社会的常識あるいは知識からの解放が次に必要となる。既定の「意味」を排した「非意味」則ち「夏炉冬扇」あるいは「風狂」への志向である。この「非意味」の次元において言葉を超えた造化の妙(物の見えたる光)が見えてくる。俳句を作品化するということは、それを読み手の心が再現できるような言葉と言葉の関係性として提示することに他ならない。もっとも、生生流転する造化の妙を直接的に言葉で捉えて意味化することは本来的に無理であり、ただ、そのイメージをのみ言葉と言葉の関係性を以て再構築するしかないと言った方が良いかもしれない。だが、それにしても、そこに作者が感得した物の見えたる光を読者が追体験できる保証はどこにもない。この意味で「切れ」による詩的昇華は「命懸けの飛翔」と言えるだろう。

 そこで次に、そうした「非意味」から再び「意味」の次元へと立ち帰ることが必要になる。その刹那において作者と読者の詩的共感が反省的に確認されるのである。言葉の一次的指示作用によって紡ぎ出される一句全体のイメージが写実的でなくてはならない事由がここにあるのだと思う。つまり、「切れ」によって既成概念や自我意識から解き放たれた「非意味」の次元あるいは無意識的次元における詩的昇華は、言葉の一次的指示作用による写実的イメージと相互滲潤することによって初めて新にして深なる詩的創造として止揚されるのである。畢竟、音数律的要素と意味的要素とが「切れ」の詩法において深く関わる所以もまた実に茲に存するのである。