俳句における「切れ」の詩的創造 | 五島高資のブログ

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俳句における「切れ」の詩的創造

                       五島高資

 

 

 松尾芭蕉による「切れ」の詩的創造によって、俳諧の発句は芸術的至境へ達し、一つの詩形式として確立された。現在でも、それは俳句における核心的な役割を果たしている。その「切れ」の詩的創造を模式化したのが下の図である。

 

 横軸は「観念の世界(言語的世界)」と「物自体の世界(非言語的世界)」を対極とし、縦軸は詩的昇華の度合いを示している。一口に風景(landscape)と言っても、単なる客観的対象としての実景(sight)と、見る側の主観が込められた情景(scene)という二つの要素があることを理解しておきたい。光景(spectacle)スペクタクルという語はラテン語のspectareに由来し、元来は突然出現するものとか、予期しないのに出現するもの、早くいえばお化けのようなものを意味する。隠喩が「意味」の次元へと向かうのに対して、換喩は「非意味」の次元へと向かうとされる。そして、隠喩はもうこれ以上、意味化することができなくなる場所、つまり、言語での把握が困難な「物自体」の世界に至ると、隠喩に代わって換喩の機制が優位になると考えられる。因みに換喩とは本来ある事物を表現する場合、それと関係の深いもので置きかえるものである。例えば、刀で武士を表すことはその一例であるが、これは既に概念化されたものである。むしろ、ここで言うところの換喩とは初めから想定された対象を表現しようとするのではなく、無意識的あるいは語音からの連想による言葉と言葉の連鎖的なシフトによって「非意味」の世界へと向かうものである。

 

 さて、図に戻ろう。まず、「実景」に触発された詩想に応じて観念的世界に存する言葉が選択される。ここで単に観念的な言葉の意味合いだけで「実景」を捉えたに止まるのが些末描写(写実)である。一方、「実景」に触発された詩想が固定観念から離れることによって見えてくるのが「光景」である。ここにおいて重要な役割を担うのが定型(韻律)であり、固定観念揺るがし言葉を解放するのである。

 

 実はそこに見えてくるのが芭蕉の云う「物の見えたる光」なのであり、「切れ」の核心もまたそのあたりに存するのだと思う。しかし、あまりにも詩想が言葉の観念性を離れすぎれば妄想(図では破線の方向)となってしまう。そこで、再び詩想は「観念的世界」へと逆戻りしなければならない。そうすることによって詩想が他者の深い無意識的共感を獲得して見えてくるのが「情景」ということになる。しかし、共感がより浅いレベルに止まればもちろん充分な詩的普遍性は得られないことになる。そこで、さらに理性による詩想の観照が必要になる。つまり、自らの詩想がほんとうに新しいものであるかを反省的に検証しなければならないのである。そのために伝統的連想性や知識といった文化的記憶との照合が必要になることは言うまでもなく、そこにおいて類想的あるいは陳腐な表現が淘汰される。ここまで来て初めて詩想はその真価を問われる対象となる。そして、その真価が認められればそれは新たな文化的記憶や伝統的連想のなかに組み込まれて定着することになる。こうした一連の螺旋的展開を呈する詩的ダイナミズムが俳句における詩的創造の本質なのだと私は考えている。そして、改めて述べるが、その初段階において最も重要な役割を担うのが定型(韻律)なのであり、もちろん、それは日本語の音感や言語構造に深く関わるものである。

 

 J・ラカンは、「無意識は言語のように構造化されている」と喝破したが、まさに、幼児期において聞かされる日本語によって私たちの脳はその構造的成長を遂げる。つまり、母国語はその音感を介して、理性や感情や記憶を司る脳を形成する文化的遺伝子の役割を担っているのである。意味以前の言語は幼児にとってはまさに音楽なのである。「有季定型」といった形式主義はもちろん、意味やそれに裏打ちされた散文をも超えて、言語が音楽にいったん立ち帰る瞬間にこそ現代俳句の詩的創造は求められるべきなのだと思う。俳句の詩的創造性は、自明の理として既に「ある」主体による叙述性を超えたところにある。繰り返しになるが、まず「実景」に際して、「言葉」の固定観念が韻律によっていったん解体されることによって「ものの見えたる光」すなわち「光景」が立ち現れる。「切れ」とは、まずこうした韻律による「言葉」の固定観念の解体と同時に「言葉」と新たな意味性の再構築をもたらす。そして、その新しい「言葉」同士の関係性つまり一種のメタファによって「切れ」は俳句に詩的創造を成就する。しかし、あまりにも詩想が言葉の一次的指示作用や観念性から離れすぎれば前述したように妄想となってしまう。従って、この「心」《ひとりごごろ》なる詩想が他者に共感をもたらすためには、「情景」あるいは「場景」へと回帰して「情」《ふたりごころ》として無意識的共感に根ざす必要がある。そうしてはじめて「写実」は「写生」(宇宙[造化]的詩性の把握)へと詩的昇華を遂げるのである。もちろん、ここで季語や季題における伝統的あるいは体感的共有感覚もまた一つの大きな役割を果たす。「造化に随ひて四時を友とす」と芭蕉が喝破した所以である。また、併せてその独創性を検証すべく、伝統的連想性や文化的記憶との照合によって類想的あるいは陳腐な表現が淘汰されなくてはならない。名句とは、それがやがて新たな文化的記憶や伝統的連想として不易性を獲得したものと言える。こうした詩的位相が螺旋を描く詩的ダイナミズムにこそ俳句における言語芸術の核心として「切れ」の詩法が存するのである。

 

 ところで、文語あるいは口語にしろ、旧仮名遣いあるいは新仮名遣いにしろ、音声表象や音声記憶は常に現在を生きる私たちの「実存」と深く関わっている。そして、その音声情報は個人を超えた無意識的連想として脳の記憶システムに蓄積され世代を超えて身体化されている。それを「場景」として捉えれば、例えば「歌枕」や「俳枕」など、トポスにおける土俗性やアニミズム的要素がそこに深く関わってくる。このような集合無意識の領野を淵源とする詩的創造の「現瞬間」に真の「主体」が立ち現れるのである。以上のような音声による身体化の総体を「音楽性」と捉え、それに裏打ちされた詩的創造性によって、近代俳句を超克すべき真の現代俳句における芸術的展開が期待されるものと考えられる。脳がまだ可塑性を保っている思春期あたりにおいて聞かされる日本語によって私たちの脳はその発達的成長を完成する。それまでに、母国語はその音感を介して、理性や感情や記憶を司る脳に大きく影響する文化的遺伝子的要素として重要な役割を担っているのである。意味以前の言語は幼少期にとってはまさに音楽なのである。「有季定型」といった形式主義はもちろん、意味やそれに裏打ちされた散文をも超えて、言語がその出自たる音楽にいったん立ち帰る瞬間にこそ俳句における詩的創造の原点があるのである。

 

 最後に、そうした「切れ」の詩的創造を最も体現していると思われる一句を紹介して擱筆したいと思う。

 

  雲雀より空にやすらふ峠かな  芭蕉

 

 高い峠から俯瞰する佳景は登坂の疲れを癒してくれる。しかも、そこは、告天子ゆえ神に近い揚げ雲雀よりも高い空のなかでもある。それは、「意味性」の根源である二項対立的観念、例えば有無あるいは有為の奥山を超克する「空《くう》」に通じると見れば、日常的言語における記号的「意味性」を突き抜けた光景がそこに開かれる。「峠」とは単なる地点という意味を超える様々な登りと下りを象徴する特殊なトポスでもある。しかも、常に天の音楽が奏でられているという仏説阿弥陀経における天国の安らぎさえも思い浮かばれる。しかし、いずれの「空」もやはり「峠」という「場」に回帰することによって「場景」あるいは「情景」として読むものの琴線に触れるのである。

 

 

                  追記

正岡子規の辞世における考察

  糸瓜咲いて・・・客観的な写実

  痰のつまりし・・・主観的な言表

  仏かな・・・主客や生死といった二項対立的観念を超克した「写生」