いつまでも過去のことにこだわって、先に進まないあなたへ
いつまでも過去のことにこだわって、先に進まないあなたへ
そんなあなたは、現在もまだ満足しないで生きています。
過去がきちんと整理できていません。
それは、あなたがいまでも過去の出来事に納得していないからです。
これはひとえに他人に責任の一端を負わせてきたことが原因なのですが、かといって、いつまでもこのような生き方を続けていたら、無気力な人生で終わってしまいかねません。
なぜ納得しない過去に執着するのでしょうか。
この続きはまたあした
大事な人に愛を与えたいあなたへ(続)
「愛する」ことを知ったおばあさんは、もうひとりのおばあさんに自分の「愛」を与えたいという感情が芽生え、それが具体的な”行為”に変わりました。そして、それがお互いを「助け合う」「支えあう」喜びに変わっていったのです。
「生きる喜び」を知ったとき、足の不自由なおばあさんはささくれだった心にうるおいをとり戻しました。
そんなとき、「お風呂に入る」という小さな状況の変化がきっかけとなって、お互いにさらに強く「信じあう」関係に変わっていったのです。
愛とは、相手が求めているものを与えることです。しかし、一歩まちがえると、時として「要求」と「義務」の関係に変わってしまうことがあります。
本当の「愛」は、相手が何を欲しているのかを探している自分の心です。その求めているものを与えたとき、愛の喜びを自分も与えられるのです。
これは母親と子どもの関係とまったく同じで、よく「無償の愛」が「真実の愛」といわれますが、子どもが何を求めているか、黙っていても母親の心にはわかります。
「愛」には「信頼」がなければ、どんなに激しい感情が生まれても、それは自分の「自己愛」以外の何物でもありません。
『ここにずうっと待っているからね』『ウンウン』と言葉をかわしあっているふたりのおばあさんに、私は崇高な精神さえ感じます。
男女の愛、親子の愛、友人の愛、そして、支えあう愛・・・そこには「愛はとるものではなく、与えるもの」という土台が必要なのです。
愛は「とる」ものではなく「与える」ものです。
大事な人に愛を与えたいあなたへ
愛は与えるものですか、とるものですか?なぜ人は「愛」なくしては生きていけないのでしょう。
愛することで生きる力が生まれるとしたら・・・。「生きる力」とはどんな力なのでしょうか。
足の不自由なおばあさんと痴呆症のおばあさんが無断で自分のベッドで寝ていると言っては不満や怒りを職員たちにぶちまけ、そんなイライラが高じたせいか、しだいに表情から穏やかさが消えていきました。
ある日、老人たちは野外で散歩することになりました。そのとき、足の不自由なおばあさんの乗った車椅子を痴呆症のおばあさんが一生懸命押してくれたのです。ふたりのあいだにいつのまにか何かが生まれました。
夕食のとき、足の不自由なおばあさんが痴呆症のおばあさんの口にごはんを入れてあげると、おばあさんはそれをおいしそうに食べました。
食事が終ったころ、職員が痴呆症のおばあさんにお風呂に入るようにすすめました。ところが、おばあさんはお風呂に入るのはいやだと駄々をこねて、そこから動こうともしません。職員が何度言い聞かせても同じです。
すると、足の不自由なおばあさんは痴呆症のおばあさんにこう言ったのです。
「ここに、ずうっと、ずうっと、待っているからね。ここに、ずうっと、ずうっと、待っているからね」
まるで恋人に語りかけるかのように、何度も同じ言葉を繰り返します。
しばらくお互いにずっと見つめあっていましたが、もう一度、足の不自由なおばあさんが同じ言葉を繰り返したそのときです。
痴呆症のおばあさんは、足の不自由なおばあさんに向かってこう言いました。
「行ってくるね」
このお話では、一生懸命車椅子を押した痴呆症のおばあさんの”行為”が、足の不自由なおばあさんの心に”やさしさ”を育てました。つまり、足の不自由なおばあさんは「人を愛する」ことを”体”で知ったのです。
このつづきはまた明日
