前世紀の終わり頃に、僕が初めて上海を訪れた時、浦東(Pudong)空港はまだ、開港されておらず、僕は、虹橋(Hongqiao)空港の古いターミナルビルに、小雨が降る中、到着しました。この時、僕は、生まれて初めて、いわゆる西側の国(自由主義陣営)ではない国に、足を踏み入れました。
アヘン戦争の講和条約である南京条約によって開港された5都市のうちの一つである、上海。かつて、租界(治外法権が設定された外国人居留地、concession)があり、各国の思惑が渦巻き、新旧のものが混在し、魔都と呼ばれることもある上海。
当時、上海の街中で、屋外広告のような形の、政治的スローガンが含まれた、でっかい「文書図画」を、度々、見かけました(楠本徹也氏の「街角スローガン」に関する考察の中に、実例写真あり)。三十代前半で、今よりも心が川のように流れていた僕は、「これが、実質的に共産党が独裁する国のやり方なのか」と、強く感じました。
(上の段落の下線部の表現は、吉田拓郎さんの詞から借用しました)
今、日本中のあちこちで見かける、ほんわかした政治的スローガン、立候補予定者の氏名、笑顔のカラー写真などが、大きく印刷された、いわゆる2連ポスター。
それに、今、日本中のあちこちで見かける、ちゃちな作りの公設ポスター掲示場(公選法第144条の2第1項)に、選挙の公示後、貼られるであろう、ほんわかした政治的スローガン、立候補者の氏名、笑顔のカラー写真などが、大きく印刷されたポスター(公選法143条1項の中の五号)。
ほんわかした、つまり、抽象的な表現の、政治的スローガン、立候補予定者の氏名、笑顔のカラー写真などが、大きく印刷されたポスターを、町中の至る所に掲示することにより、できることは、名前と顔を、町中を移動する人の頭の中に、刷り込ませることだけではないでしょうか。
国会議員の本分は、政策を立案し決定すること、抽象度を下げて申し上げれば、法律を成立させることと、予算を成立させることでしょう(憲法59条と60条)。それなりの額の公金を注ぎ込んで、そのようなポスターを掲示することに、どれほどの社会的意義があるのでしょうか。
ほんわかした政治的スローガンが町中で大量に掲示されているのを見て、偏屈な僕は、「実質的に共産党が独裁する国」を連想してしまいます。
手頃な価格のタッチスクリーン装置の画面上を、数タップするだけで、多くの情報に辿り着くことができる21世紀の今、なぜ、「ちゃちな作りの公設ポスター掲示場を、公職選挙の度に設置しては撤去する」ことが、繰り返されるのか。この辺りについて、次回以降の投稿で、考察します。
神奈川県横須賀市にて
佐藤 政則