漢民族、漢族という大きな括りの中に、客家(はっか)と呼ばれる系統がありますが、その系統の出身である孫文(1866年広東省生まれ - 1925年没)。客家のネットワークを活かして、ということでしょうか、孫文は、1878年、後に米国に一方的に併合されてしまうことになるハワイ王国のオアフ島に渡り、1879年から1882年まで、中華街からそう遠くないところにあった英国国教会系の学校(現在のイオラニ・スクール)で、学生生活を送られたそうです。
その後、帰国し、1887年から1892年まで、香港西医書院(現在の香港大学医学部)で医学を学んだ後、孫文は、清朝打倒を目指す革命運動の資金をハワイの華僑から集めるために、1894年、再び、ハワイのオアフ島に渡り、同年11月24日に、中華街の近くで、秘密政治結社『興中会』を結成しました。
因みに、ハワイでは、その前年、1893年の1月に、米国人入植者を中心とする王政反対派が、臨時政府樹立を宣言し、事実上、リリウオカラニ女王を退位させていて、立憲君主制のハワイ王国は、孫文がハワイを再訪した時、既に滅ぼされています。
上述の興中会には、「誓詞(誓いの言葉)」というものがあり、「驅除韃虜、恢復中華、創立合眾政府」が、その誓いの言葉だそうです。中華の地に進出し支配した清朝の満州族(韃靼)を追い出し、中華を再興し、民衆の政府を樹立する、といった意味でしょうか。
孫文は、台湾では国父と、呼ばれています。中華人民共和国の習近平氏には、「中国民主革命の偉大な先駆者(中国民主革命的伟大先驱)」と呼ばれているようです。癌に冒され、1925年に北京で病死した孫文が、もしも草葉の陰から、中華の地(華北、華中、華東、華南と呼ばれる地域だけを、僕は指しています)、及び、その周辺の地域の状況を観察したなら、何と仰るでしょうか。
「国父と呼んでいただけるのは、光栄の至りなんだけど、次のは、ちょっと引っかかるなぁ。辛亥革命の勃発から110年以上の歳月が過ぎてなお、普通選挙を否定し、民主化を否定する御仁に、そう持ち上げられてもねぇ・・・」
(これは、もちろん、僕の勝手な想像ですので、よろしくお願いします)
神奈川県横須賀市にて
佐藤 政則