昭和天皇の昭和21年のお誕生日と、上皇陛下の昭和23年のお誕生日(その2) | 佐藤 政則「不易流行 -日本再生に向けて-」

佐藤 政則「不易流行 -日本再生に向けて-」

変わらぬ理念の実現を目指し、しくみを修正する。
実態に合わなくなった諸制度を見直し、日本国を良くすることを目指す、政治ブログです。

(前回の投稿からの続きです)

 

 1946年1月19日よりも前に為した行為に関して、1946年1月19日に制定された極東国際軍事裁判所憲章を基に、連合国側によって審理された後、1948年12月23日に、連合国側によって絞首され殺害された7人の日本人のうちのひとりである広田弘毅は、外相歴が長い首相で、首相在任期間は、1936年3月9日から1937年2月2日までです。

日中戦争の発端となった盧溝橋事件が発生したのは1937年7月7日の夜です。また、現在の首相は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有しますが(自衛隊法7条)、当時の首相は、統帥権を有していません(大日本帝国憲法11条)。つまり、軍人ではありません。

 

 その広田弘毅は、外相のとき、よく部下に、「日本は、英雄を要しない。我々は、陛下の手足となってお手伝いすればよい」と話していたと、言われています(因みに、広田弘毅の妻である広田静子さんは、1946年5月3日に極東国際軍事裁判が開廷された後、いわゆる巣鴨プリズンで広田との面会を済ませ、程なく、自害、自尽されています)。

 

 そして、その昭和天皇は、1945年9月27日に、ダグラス・マッカーサー連合国最高司令官と会見されました際に、ダグラス・マッカーサー最高司令官に、

「敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」と仰(おお)せられたと、言われて居ります。

 

 小笠原諸島と沖縄の返還は、確かに遅れましたが、我が国は、分割統治されることなく、米国による批准書寄託の手続きが完了した1952年4月28日に、国家主権(sovereignty)を取り戻し、今に至っています。

平成の御代での最後の殉国七士墓前祭に出席させていただきたく思って居りましたが、休暇の調整が付かなかったため、思い叶わず、何とか、過日、昭和天皇の武蔵野陵(むさしののみささぎ)に、文字通り馳せ参じ、「この国に生まれ日本人であること」への感謝の思いを、新たにして参りました。

 

 

兵庫県姫路市にて

佐藤 政則

 

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