現在の名称は『製鉄記念広畑病院』である病院で生まれた者にとって、炉と言えば、溶鉱炉です。子供の頃、日が暮れて夜になり、溶鉱炉がある方角を向いて空を見上げると、暗い中にも、ほんのりと空が赤くなっていて「炉が燃えているんだ」と思ったものです。しかし、エネルギー政策を語る上では、炉といえば、原子炉でしょうか。
1953年12月に、ドワイト・アイゼンハウアー米国大統領が、国際連合(国連の公用語の中国語での表記は、連合国)の総会で、『平和のための原子(Atoms for Peace)』という言葉を使ったそうですが、その米国において、原子力発電の商用運転が開始されたのは、1958年5月だそうです。その48年後、株式会社東芝は、ウェスチングハウス・エレクトリック社の全株式を取得する契約を、英国の会社と締結したそうです。
また、その翌年、米国における原発の商用運転の開始から数えれば、その49年後に、株式会社日立製作所は、ジェネラル・エレクトリック社と、共同出資の会社を、日米においてそれぞれ設立し、原子力事業を両者の間で統合したそうです。
なぜ、そもそも、米国有力企業の、原子力という重電の事業は、「多くの原子炉が、その寿命を迎え、廃炉となる時期が近づいてきた」ことを、まるで見越したかのように、米国における原発の商用運転の開始の48年後、そして、49年後に、日本の有力企業である東芝や日立製作所の傘下に、入ったのでしょうか。
もし、原子力発電というものが、商用運転の開始から50年以上の歳月が過ぎても、充分な利益を確保し、儲かる事業であるならば、わざわざ、東アジアの島国において登記されている有力企業に株式を売却したりなど、しないでしょう。「化粧を施したお荷物物件を、まんまと買わされた」と申し上げれば、現時点では言い過ぎかもしれませんが、言い過ぎかどうかを判定するのは、まだ時期尚早だと思います。
で、今から約2か月後、本年の7月25日は、我が国において、原発の商用運転が開始されてから50周年の日だそうです。テロリストによって、冷却水の配管の中に増粘剤を混入されただけで、冷却機能を失い爆発を起こし、放射性物質を、世界に向けて撒き散らす原発。他の発電施設ではなく、原発で生み出された電力でなければ、実現し得ないような現象や事柄は、ありません。
この半世紀、私たちは間違っていなかったのか。ゆっくりと、振り返ってみるべきではないでしょうか。
神奈川県横須賀市にて
佐藤 政則