東洋の奇跡と呼ばれた経済的成長と、その後の赤字国債への依存 | 佐藤 政則「不易流行 -日本再生に向けて-」

佐藤 政則「不易流行 -日本再生に向けて-」

変わらぬ理念の実現を目指し、しくみを修正する。
実態に合わなくなった諸制度を見直し、日本国を良くすることを目指す、政治ブログです。

 「日本の降伏文書(Instrument of Surrender)が、東京湾内に停泊する戦艦ミズーリにおいて署名された日である1945(昭和20)年9月2日から、サンフランシスコ条約日本語英語が発効し、著しく制限されていた我が国の国家主権(sovereignty)が回復した日である1952(昭和27)年4月28日まで」の間において成立した、我が国の法令は、多かれ少なかれ、先の大戦での戦勝国である連合国の意向を反映させつつ、作られています。
より具体的に申し上げれば、「日本が、再び力を付け、米国を中心とする連合国が構築し維持する世界秩序(world order)に、異議を唱えることがないよう、日本が再び大国になる道筋を、封じておきたい」という米国の意向を、多かれ少なかれ、反映させつつ、作られています。

 そういう背景を頭に入れて、下掲の財政法(昭和22年法律第34号)4条1項の文章を、読み返していただきたいです。「その後、日本が(東洋の)奇跡と呼ばれるほどの経済的成長をし、戦後復興を成し遂げる」ことなど、夢想だにしなかった占領下の当時、下掲の文章が、なぜ、条文として採用されたのか。

財政法4条1項
国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以(もっ)て、その財源としなければならない。但し、公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる。


日本が戦後復興を成し遂げ、赤字国債を発行できるほどの金融上の信用(credit)を得ることなど、予想できなかった占領下において、米国は、上掲の文章を財政法に入れることにより、万が一にも日本が戦時公債を発行することを、抑止しようと考えたのではないかと、僕は、推測しています。

 今年は、戦後70年目。固定相場制から変動相場制への移行が1973年。石油危機が1973年と1979年。更なるドル安への急速な誘導の端緒となったプラザ合意が1985年。1990年代に入り、「バブル経済の崩壊」と呼ばれる急速な景気後退があり、その後、2007年にサブプライム住宅ローン危機が表面化し、翌2008年の秋にリーマン・ブラザーズ社が破綻。

 変動相場制への移行が行われてから2年後の1975(昭和50)年度に赤字国債(=特例公債を発行して以来、今に至るまで、その残高がゼロになったことはなく、日本国は、1996(平成8)年度以降、その残高を急激に増やし続けています。
そういう歴史を踏まえ、近未来(near future)を予測しながら、政治上の決断を下せる政治家が、この国において見当たらないことを、僕は、大変、不甲斐なく思っています。


神奈川県横須賀市にて
佐藤 政則