仁義礼智信。この五つは、儒教において、五常(ごじょう)と呼ばれ、人が常に守るべき五つの徳のことだそうです。
仁は、思いやり。義は、正道、人が歩むべき正しい道。まぁ、正しい道と言っても、煩悩の塊(かたまり)である人のこと。あくまでも、理念や理想であり、判断に迷った際、その旗に近づいているのか、はたまた、その旗から遠ざかっているのかを考えるときの、旗のことでしょう。
愛という言葉は、多義的で、含みが多く、振れ幅の大きい言葉であり、野暮を自認する者としては、大変使いづらい言葉で、あまり使ったことがありません。文章を練っているとき、語を取捨選択していくと、結局、仁義という言葉が残り、当ブログにおいて、前回を含め何度か、仁義という言葉を使って参りました。もちろん、「仁義を切る」云々の仁義とは、全く関係ありません。
3年前の5月に、「社会において、義が廃れれば、憎しみの連鎖を断ち切ることができなくなり、テロ行為と呼ばれる、破壊行為、殺人行為が行われると、私は思っている」と、書かせていただきました。
ニュースサイトを見れば、連日のように、空爆(airstrike)や首斬り(beheading)の文字が、大見出しで使われています。義が廃れ、人心が荒廃し、憎しみの連鎖を断ち切ることができなくなっている人類社会。一日本人として、どう捉え、何をしていくべきか。問題が大き過ぎて、考える糸口さえ見付からず、茫然とするばかりです。
兵庫県姫路市にて
佐藤 政則