専門家と呼ばれる方々は、とかく、単純なことも、小難しく述べようとされる傾向があるように、思うことがあります。
以前、集団的自衛権に関し、「仲間を見捨て傍観するだけの者には、なりたくない」と、書かせていただきました。集団的自衛権という言葉、今も、何だか、取って付けたような変な言葉だと、感じております。専門家の方々は、何ゆえ、そのような言葉を編み出し、世に広められるのか。凡夫に過ぎない僕には、ちんぷんかんぷんです。
社会的動物、群れをなして生活するしか生きる術がない動物である人類にとっての自衛権は、そもそも、集団的(collective)なものであるはずです。武装集団が、攻撃を仕掛けるときは、攻撃しやすいところから攻めるでしょう。卑近なことを例に挙げるなら、騎馬戦の団体戦のとき、まず、弱そうな騎馬から攻めるでしょう。
だから、仲間の中で、強い者が弱い者を守る。もし、仲間のうちの誰かが攻撃を受けたら、強い者が中心になって、攻撃を受けた仲間を助けにいく。それが、人の世というものではないでしょうか。国際社会においても同じで、同盟関係にある仲間の国の国民が攻撃を受けたら、強い者が中心になって、攻撃を受けた仲間を助けにいく。
そういうことを念頭に置いて、先ほど、「自衛権とは、そもそも、集団的なもの」と申し上げました。もし、そうでないなら、どういうことを誘発し、どういう結果を招くことになるでしょうか。
成らず者は、相手方のうちで、最も弱い者から順に攻めていくけれど、仲間を助けようと待機している強者は、自らが攻撃を受けるまでは、手を出すことができず待機したまま。攻撃を受けた仲間を、見捨てざるを得ない。そうなれば、成らず者が、我が世の春を謳歌することになります。
自衛権は、そもそも、集団的自衛権をも含んでいる。単純過ぎて申し訳ないくらいですが、それでいいのではないでしょうか。
神奈川県横須賀市にて
佐藤 政則