前回の投稿で、「私は、不敬にも、鬼の目にも涙という言葉を思い出した」と、申し上げました。ヒラリー・クリントン長官に対して、不敬だという意味ではなく、昨年の9月11日に、リビアのベンガジで発生した米国領事館襲撃事件で亡くなられた4名の米国人に対して、不敬だという意味です。
1月15日の投稿で、「私は、中国共産党自体を否定しているのではなく、否定すべきは独裁である」と、申し上げました。独裁を肯定する組織自体を肯定する余地は、全く無いので、「市井に住む一国民に過ぎない私が、改めて、そういう組織を否定する必要など無い」という思いを込めて、そう申し上げました。
政治における問題には、常に、多様な要素が複雑に絡み合っている。政治に関する私見を申し上げることは、ことほど左様に、難しい。
私は、政治用語としての保守という言葉を自ら率先して使うことを、あまりしない。その理由は、あまりに当然のことなので、わざわざ言葉にする必要はないと、思っているからだ。
例えば、地球に存在する全ての水が汚染されたら、高度に進化してしまった人類は、そう長く生き延びることなく滅びるだろう。それほど水が大切だからといって、政党の名を「水を大切にする党」にしようと思う者など、いるだろうか。もし、わざわざ、そういう名称を選んだとしたら、余程の事情があってのことだろう。
華美な服装をした、妙齢の女性が、携帯情報機器を操作しながら、深夜に一人で、歩道がない道路を、向こうから歩いてくる。小型の愛玩犬を連れた人が、向こうからやって来る場合もそうだが、私は、謹んで、こちらから、よけさせて頂くようにしている。
日本以外に、それほど治安が保たれた国、しかも、携帯情報機器が普及し、ごく普通の人々が愛玩犬を飼うことができるほど、経済が安定している国を、私は知らない。
世界の国々の有り様に、現実に、少しでも関心があるのなら、そういう「日本丸」に乗り組んでいることに、感謝の念を抱くはずである。感謝の念を抱けば、保守という言葉を知らなくても、「年がら年中、あれも反対これも反対と唱える人」の集団に加わることなど、ないはずだ。私は、そのように思っている。
神奈川県横須賀市にて
佐藤 政則