未完成の技術を、実用に供してはならない。あまりに当たり前のことを申し上げることに、ためらいを感じない訳ではないが、現に、当たり前でないことが行われている以上、申し上げざるを得ない。
今般の重大な原子力事故は、計らずも、膨大な量の使用済み核燃料(spent nuclear fuel)が、行き場がなくて原子力発電所内に留め置かれていることを、多くの人に知らせた。福島第一原発の周囲に人が住めるようになるまでは、事故への対応が山を越えたとは言えないので、それまでは、「今般の」と書かせていただく。
(昨日、頭が痛く、横になりながらここまで書いて、書くのを断念してしまいました。では、続きを書いて参ります。)
少し、話が逸れるが、1955(昭和30)年の年末に公布された原子力基本法の7条で、核燃料サイクルという言葉が、使われている。"nuclear fuel cycle"の訳語だろうが、循環している訳ではないものを指して、サイクルと呼ぶのは、明らかに言葉の誤用である。
この誤用は、意図的なものだろう。ウランとプルトニウムが、まるで循環過程を経ているかのような、例の図(クリック後に現れるページの中ほどにある図【第123-1-2】)を書き、核燃料サイクルと呼べば、どうなるか。「例の図全体が永久機関である」かのような印象を、多くの人に与える。そのための、意図的な誤用だろう。
エネルギー保存の法則によれば、無から有が生じることはない。「外界を変化させずに、永久にタービンを回し続ける装置」など、無い。
未完成の技術を、実用に供してはならない。「多量のエネルギーが放出されるのと同時に放出される放射性廃棄物」を無害化する工程を開発し、原子力の技術を完成させるまでは、原子力の平和利用は、完全に凍結すべきである。
もし、人類に、その工程を開発する能力がないのであれば、私達は、原子力の平和利用を凍結したまま、膨大な量の使用済み核燃料を見張り続けるしかない。
到底、子々孫々の者に対し、申し開きができることではない。この世を去るとき、私は、どの面を下げて死ねばいいのだろうか。
神奈川県横須賀市にて
佐藤 政則