今日の午前中、兵庫県姫路市の書写山の山上にある西国二十七番札所、圓教寺(えんぎょうじ)に、行って参りました。書写山は、海抜371メートルあるそうです。麓から山上近くまで、ロープウェイがあるのですが、いつも通り、麓から山上まで、せせらぎを聞きながら歩いて登りました。
歩いて登る道は、いくつかあるのですが、今朝もいつも通り、六角坂と呼ばれる、最も人の手が加えられていない山道を歩きました。地元の方がされているのだろうか、必要に応じて、黄色のロープを山道沿いに、張ってくださっている。それがなければ、道がどちらに向けて伸びているのか分からない。そういう箇所がところどころにあるくらい、人の手が加えられていない。
圓教寺は、千年以上前に建てられたそうだ。あまり人の手が加えられていない山道を、歩いて登っていると、千年以上前に、この寺を建てるために働いた人達も、こうやって、ロープウェイなどを使わずに、大きい石や倒れた樹木を避けながら、登っていたのだろうと思った。
千年の時を経ても、個人の生き様など、そう変わらないのかもしれない。生きるとは、常に、時の流れの最先端にいるということだと、思う。千年以上前の人も、そのとき与えられた環境に反応しながら、日々を過ごし、千年後、私も、単純に、今与えられた環境に反応しながら、生きているに過ぎない。
いつの世でも、政治を行う資質がない者が政治を行なえば、混乱が増すだけである。またまた、仕分け大会をしているらしい。通常国会の会期中に、である。「収入45万円、支出90万円。差額はこの予算を執行しながら、なんとかします」、そういう、収入と支出が合わないずさんな計画を、公金の予算と呼ぶ人がいる。あなたは、変だと思いませんか。