通貨は、公器である。寡占が進めば、弊害が出る | 佐藤 政則「不易流行 -日本再生に向けて-」

佐藤 政則「不易流行 -日本再生に向けて-」

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 通貨の歴史は、長い。貨幣ともいう。貨は財物、幣は神前に捧げる布を、指すそうだ。私は、貨幣という語よりも通貨という語を、よく用いている。"currency"という語を意識して、そうしている。その英単語を辞書で引けば、様々な訳語が出てくるが、その語の"意味の中心"、"意味の核"になる部分は「流れること」だと、私は捉えている。

 財物や役務、つまり、物やサービスの対価として流れていくことが、通貨の本来の在り方であり、存在意義である。共同体の構成員が、分業しながら、全体として協業する。通貨は、そのための道具に過ぎない。
共同体の構成員のうちのごく一部の人が、通貨を溜め込んで、全ての会社の大半の出資証券(株式会社においては株式)を取得し、会社を実質的に支配し、共同体の健全な発展を阻害することを促進するために、通貨制度があるのではない。

 あなたの財布の中にある通貨は、あなたの物だが、通貨制度自体は、公器である。民法の第1編第1章第1条には、「私権は、公共の福祉に適合しなければならない。」と書かれている。もちろん、条文の順序には、それなりの意味があり、この文章が、長い長い民法の冒頭に置かれている。

 以前述べた通り、カブヌシ総会での議決権は、現在は株主にしか与えられていない。そういう制度に基づいて営まれている現代社会において、純資産の格差が極端に大きくなれば、共同体の大半の構成員の生活は、必ず劣化する。
共同体という語は、近代以降においては、国という語に置き換えていただいて構いません。通貨の歴史から学び、通貨を再定義すべき時が、既に来ていると、私は思っています。