chick3791 日常あれこれの発信 -8ページ目

chick3791 日常あれこれの発信

早や7月。
野菜・・ドイツ豆がよく実りました。大きくて、柔らかくて、おいしい。
果実・・桃が大きく実った。初めて沢山実った。何百個あるかな?
早速鳥がつつきに来るので、網掛けが大変。

● Danceの新しいfigureは、もう生まれない?


       
私は未熟者。でも、14年ほど気後れしながらも続けてきたのは、何か惹かれるものがあったからだろう。

老後の適度な運動、異性との適度なふれあい、上達度に比例する達成感 などが後押ししているのではないか・・・・・?


自由奔放に踊っているように見える数あるfigure stepは、その全てに整然と、名称、歩の運び方とその定義づけがされているのである。

先達があれこれと開発・設定してきたものだが、 もうこれ以上、新しいfigureは生まれないのだろうか?


Partyでの最中に、自分では分かっているが、苦肉の策として、定石にはないstepを踏むことが稀にある。後で相手に言われたときは、「さすが、 やはり、ばれているんだ・・・」と、思うこともあるし・・・


何かを発見するような、大げさなものではないが、何がしかのstepが生まれてきてもいいとも思いますが・・・?


https://youtu.be/5q03KlDGAJA


みなさんは、如何思われますか?
こんなことを問いかけているようでは、まだまだですね・・・・?
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201533日の午後、小雨降る播州赤穂をぶらり尋ねた。僅か半日であったが、暗くなるまであちこちと歩を運んだ。 想いかえして記録していると 播州赤穂_14、赤穂浪士_110 の14回にもなる長編となってしまった。今回がその最終回である。

史実に沿ってあらすじを追っているうちに内容がやや暗くなり、早く終えたいと思いつつ、現代世相の中で忘れ去られてしまった何かを思い出させるものもあろうかと、頑張って綴ってみた。

戦国時代から抜け出し、天下泰平と言われた徳川300年の江戸時代。

1603年:家康が征夷大将軍となり徳川幕府の発足から、1867年:慶喜の大政奉還までの264年間。


Picture :
初代将軍:徳川家康

江戸時代が約80年経過した時点(延宝8年:天和元年:1680年)で第5代将軍となった綱吉(35歳)の頃、1683年の天和令(武断政治から忠孝・礼儀を重んじる文治政治に転換)、1685年の生類憐みの令(捨て子保護、動物の保護)を制定。

1701年に赤穂藩主浅野内匠頭の高家吉良上野介に対する刃傷事件が勃発。その結果として綱吉のとった不平等の沙汰に対して、2年をかけて、時の権力者に立ち向かい、喧嘩両成敗のリベンジを勝ち取った一連の出来事が当時の世間では大喝采を浴びた。当時のnewsとしてその実話が上演されたが、すぐさま上演禁止となった。晴れての上演(時代・登場人物設定を変えて)は45年後の1748年である。


大阪の竹本座で上演された「仮名手本中心蔵」

平成14年4月、新橋演舞場での公演

戦国時代は、何事も「力づく」が横行した。武士も町人も何かと言うと喧嘩で殺しあう気風があり、人を殺すことが軽く扱われ、むしろ功名だという意識で世の中は動いていた。

綱吉は、戦国以来のこの殺伐とした社会風潮を改め、学問を奨励し、人の心を優しくし、「文治国家」に変えていきたいとの願いもあり、天和令、生類憐みの令を制定したという。

当時庶民が口にしていた犬は食できず、急速に浸透し始めた貨幣経済システムに対応できる人材が幕府にはおらず、倹約・規制強化とあくまでも従来の米を主体とする農本主義を継続する政策で、国民は疲弊・困窮していた。


Picture:第5代将軍:徳川綱吉

生類憐みの令 の立札

余談だが、「人を殺すなんてとんでもない」という風潮ができたのは、これらの令ができた後のことであろうし、「殺人は人道に反する悪事である」との現代人の日常的な倫理は、この頃から根を下ろし始めたのでは?

歌舞伎「仮名手本中心蔵」の主題は「初一念を忘れるな」である。

深く考えすぎると損得や邪念が入って心の鏡を曇らせる、ということを役者の大石内蔵助に繰り返し語らせ、大石にとっての「初一念」①殿様の恨みを晴らす事、②武士としての誠を貫く事 を見事に成し遂げ、従容として死出の旅立ちとなるものだ。

古来からの日本文化に流れるイデオロギーを語っている各種の名著が有る。


武士道、新渡戸稲造(訳 矢内原忠雄)

Picture:新渡戸稲造


国家の品格、藤原正彦
Picture:藤原正彦

現在を支配しているイデオロギー:民主主義、合理主義、論理主義、功利主義とは一線を画するこの忠臣蔵の思想は、現代社会の小賢しい損得重視の利口者がはびこる風潮に一石を投じるものが描かれている?

「次代を担う若者が支持しない思想・文化は衰退する」とも言われるが、現代の若者はこのnon-fiction-storyをどのように見ているのだろうか?

------ 完 ------

四十七士の中には、浪人として江戸に出て居た同郷の間新六光風がいた。堀部武庸や奥田重盛らを通じて重ねて願い出て、やっと大石良雄に同志になることを許された輩である。 

討ち入り後は長門長府藩・毛利綱元の麻布上屋敷にお預けとなる。

元禄16年(1703年)年23日、江戸幕府は赤穂浪士に切腹を命じた。


・・・切腹の図

当時の切腹はすでに様式化しており、自身では実際に腹は切らず、切腹の座について短刀に手をかけたところで介錯人が首を落とした。

しかし、光風は短刀を手に取るや腹に突き刺し、横一文字に切り裂いた。驚いた介錯人の江良清吉が急ぎ首を落としたが、検視役の斎藤治左衛門らは駆け寄ると、「見事」と褒め称えることを惜しまなかった。享年24ただし間新六の遺体は遺族が引き取っていきました。




・・・麻布曹渓寺

・・・寺坂夫妻の墓

寺坂吉右衛門は本懐成就後、瑤泉院など関係者に討ち入りを報告して廻り、のちに江戸に戻って自首しましたが赦され、縁を頼って各所で仕え、最後は延享4年(1747年)に麻布・曹渓寺で83歳の天寿を全うし葬られた。慶応4年(明治元年・1868年)に泉岳寺の義士墓所に供養墓が建てられた。


・・・萱野三平記念館(箕面市)

また、47士の他に、本人は討ち入りを熱望したものの周囲の反対で、討ち入り前に切腹した萱野三平の供養墓が明和4年(1767年)に建立され、したがって泉岳寺には48体の墓碑がある。

----------  続く  ----------

討ち入り後の赤穂浪士面々は、幕府に自首してそれぞれ大名家にお預けとなった。 それから2か月も経たぬ間に、切腹の沙汰を受け、順次果てていった。

四十七士の内ただ一人、寺坂吉右衛門だけは、大石内蔵助良雄に、国元赤穂の浅野内匠頭の一族に今回の討ち入りの事情を細かく報告する命を受けて、事前に離脱したのである。



寺坂吉右衛門(吉田忠左衛門の足軽)


寺坂は赤穂浅野藩三百人の足軽の中で、討ち入りに加わったただ一人。吉田忠左衛門(四十七士の参謀役)の足軽であった。彼にとって忠義をつくす相手は浅野内匠頭ではなく吉田忠左衛門であり、その意味であろうか大石は寺坂を深く配慮し、且つ、利用したと考えられる。


足軽頭:吉田忠左衛門
寺坂は討ち入りの報告、各浪士の遺児たちの赦免等に奔走し、後には忠左衛門の娘婿に仕え、その後は全国を放浪したり、最後は寺男になり、八十三歳の天寿を全うしたという。


母親の里である島根県益田市にある、分骨された寺坂の墓

だがしかし・・・、逃亡説もある。

四十六士は赤穂藩に仕えた武士であるが、ただ一人寺坂だけは浅野内匠頭の直接の臣下ではないため、この一大事の結束と行動に際して、四十六士並みの武士扱いがされず、これが彼の心中を混乱させることになったのであろうか・・・。

 極端に言えば、 「居なくてもさほど支障がない」、 「逃亡したとしても、さほど不忠にはならない」 等微妙な立場に置かれていたともいわれているが・・・。

 討ち入り後も生きのびた人物に対して、 「命惜しさに逃げた卑怯者」とか、 「国のために死ぬことが大事である」 といわれた明治以降の軍国主義時代では、 不届きものと思われていた頃もあった。

寺坂が余生を送っていた頃の彼の心情は、いか程辛かったことか・・・と思いやられる。

今は民主主義の時代、忠義忠誠は必要だが、生命の大切さを痛感させられる non-fiction storyである。

-----  続く  -----


 時の将軍は徳川綱吉、 元禄14年(1701)3月14日の江戸城内にて。

 朝廷からの年賀の返礼行事の最終日の午前11時頃。

長矩は義央に対し、「この間の遺恨覚えたか」と言いながら脇差で正面から一太刀浴びせたが、討ち果たせ得ず。

逃げる義央を追ったが、異変に気づいた梶川与惣兵衛に背後から抱きとめられてしまった。




刃傷松の廊下の図

 長矩が原因に触れず「遺恨やむを得ざる事」とのみ言葉を残し、切腹したため、真の原因は謎のままである。

多々ある原因説のうち、主なものは以下のとおり。


 長矩の乱心説

 長矩には普段からヒステリックなところがあり、侍医の投薬を受けていたが、発作的に行動を起こしたとする説




 賄賂に対する遺恨説

 御馳走役の指南を受けるための賄賂が少額であったため、義央が長矩に対し、事あるごとにつらくあたり、長矩が遺恨を持ったとする説

 



③ 製塩法伝授拒絶説

 義央が長矩に、評判の高い赤穂塩の製法伝授を求めたが拒絶されたため、義央が長矩につらくあたり、長矩が遺恨を持ったとする説

 赤穂と吉良の塩の商圏を巡った争いがあったとする説もある。


製塩法は、昭和46年に劇的に転換され、イオン交換樹脂法による、効率的・大量生産方式で、不純物を含まないNaClのみのサラサラの塩となった。しかしその後、これまでのにがりを含む健康食品としての認可を得て、価値を追求しているのが、赤穂の塩である。
昭和40年頃の製塩風景、

江戸時代の 製塩風景
売れ筋No.1、今では、ここでしか得られない塩!!
赤穂塩田の史跡保存




--------続く--------



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吉良邸で1215日に茶会が催される情報を得て、これを好機と、討ち入り日はその前夜と決定された。

時は元禄151214日の深夜(時刻的には15日の午前4時頃だが、当時は明け方から1日が始まる感覚があったので14日深夜と考える)。

浪士それぞれは気付かれないようにばらばらに集合、内蔵助ら数人の武士は夜回りをしている火消装束を着ていたようだ。

赤穂浪士47名が表門と裏門の二手に分かれて吉良邸に侵入。


討ち入りの図

雪の夜の討ち入り

吉良邸は不意を付かれたためほとんど無抵抗の状態であった。 上野介は物陰(一説では炭小屋の中)に隠れているところを発見され、討ち取られた。討ち入り側には一人の死者も出ず、吉良方の死傷者は数十名に及んだ。


討ち入り合図の陣太鼓

仮名手本忠臣蔵

赤穂浪士一同はただちに泉岳寺の浅野家の墓前に上野介の首を捧げ、焼香。この時、内蔵助は寺坂吉右衛門に密命を与えて立ち去らせ、残りの46名の浪士が自首して出た。

赤穂義士は元禄16年(1703年)24日に切腹した後、直ちに曹洞宗 江戸三が寺 萬松山 泉岳寺(港区高輪・東京メトロの大門前)に埋葬された。ただし、間新六の遺体は遺族に引き取られた。


大石良雄

泉岳寺

泉岳寺には、内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連番状を手にして東の空(江戸城方向)をじっとにらんでいる姿を表した銅像が建立されている。

ご本尊は釈迦如来、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師・瑩山禅師、また大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)等が納められている。

寺坂吉右衛門は本懐成就後、赤穂本家、瑤泉院など関係者に討ち入りを報告して廻り、のちに江戸に戻って自首したが赦され、麻布・曹渓寺で83歳の天寿を全うした。現在も曹渓寺に眠っている。

 ---続く---  次回は、「忠臣蔵」の逸話をいくつか記述する。

 大石内蔵助良雄は浅野長矩の弟浅野長広(大学)を擁立して御家再興に一縷の望みを託した。

幕府は浪士たちが敵討ちに出るのではないかと警戒、内蔵助の周辺にも間者を配置するが、当の内蔵助はそのような様子はみじんも見せず、移り住んだ京都山科に留まり、京都で連夜の豪遊。

内蔵助の近くにいて敵討ちに燃えていた藩士たちも、その様子を見て、次々と彼の元を去っていく者もいた。


芸妓_1
芸妓_2

芸妓_3

一方、92日幕府の命により、吉良の屋敷が江戸城内呉服橋御門内から城外の本所へ移された。この不可解な移動命令は、幕府がわざわざ赤穂浪士たちに仇討ちをさせやすいように、警備の手薄な本所に移させたとも推測される。

その間に浪人となった旧藩士たちの生活も困窮し、脱落者も出始める。今日での会社倒産と同様だ。

その後、浅野長広の広島浅野宗家への永預けが決まり、赤穂浅野家再興は絶望的となった。

その10日後の728日、大石良雄は京都 円山で会議を開き(円山会議)、吉良義央への仇討ちを決定した。


大石神社境内の四十七士石像

大石内蔵助の銅像

大石良雄は仇討ち決定に際して、同志の向背を確かめるべく義盟への誓紙を一旦返却させた(神文返し)。すると、高禄の者をはじめ半数以上の同志が脱落してしまった。

誓紙の返却を拒んだ者にのみ仇討ちの真意を伝えさせた。最終的に同志は47人となった。

この後の大石の行動は素早く、散らばった同士を次々と江戸に下した。そして自らも3か月後に江戸に向かい、1026日、川崎在の平間村に着くと、そこから討入りのための訓令を下しはじめた。


川崎郷_平間村の義士隠れ家の図

今は無き_義士隠れ家跡の木柱碑

---続く---

この恐るべき凶報を伝えるべく、江戸から赤穂へ早駕籠が飛んだ。刃傷事件を知らせる第一の使者となったのは萱野三平と早水藤左衛門の二名。 

江戸から赤穂までの155里(約600km)の道のりを昼夜兼行でかっ飛ばし、3月19日、わずか4日半で到着。筆頭家老・大石内蔵助にこの事件を伝えた。


江戸時代の早籠


赤穂城内では、幕府に恭順して開城するか、抗議して篭城か、殉死かで紛糾した。1か月後の416日には、6000人の軍勢(赤穂藩の遺士たちの抵抗も予想されたため)を引き連れた幕府側の受城使が、赤穂に到着した。

堀部武庸(安兵衛)ら江戸の急進派はこれにあきたらず、吉良義央への仇討ちを強硬に主張した。


これに対して、赤穂藩国家老の大石内蔵助良雄は藩士達を説得した。大石は自分の存念を語り、それに賛同する者から起請文きしょうもん神文しんもん:誓約書のこと)を取った。現在、それと思われる書が残っている。


「このたび申し合わせの本意を相達し申すべく候。 親族に一切洩らし候まじく候。」(訳:今回話し合って決めた我らの本懐は必ず遂げます。親戚一同にも秘密に。)


御家再興運動に多くの旧藩士たちが集まり、義盟への参加者は120名に達した。



雨の赤穂城址_二の丸門



 4月19日。赤穂城は明け渡され、赤穂浅野藩は名実共に滅亡した。
 赤穂城明け渡し後も、残務処理の為に赤穂に残っていた大石だったが、6月25日、赤穂に別れを告げて新居のある京都・山科に旅立った。

彼が再び故郷・赤穂の土を踏むことは無かった。

---続く---


















時は元禄14年(1701年)314日、朝廷からの年賀返礼行事の最終日の午前11時頃江戸城松之大廊下で長矩は、「この間の遺恨覚えたか」と言いながら吉良(きら)(よし)(ひさ)に対して正面から脇差で一太刀浴びせたが・・・・・。

異変に気づいた梶川与惣兵衛に背後から抱きとめられてしまい、討ち果たすことができなかった。

時の征夷大将軍 徳川綱吉 は殿中でのこの刃傷に激怒し、浅野長矩は即日切腹 、赤穂浅野家は断絶 と決まった。

それに対して、吉良義央には何の咎めもなかった。 しかしこの沙汰、特に即日切腹に関して、城内では批判の空気が存在していたという。

長矩が原因を明かすことなく、「遺恨やむを得ざる事」とのみ言葉を残し切腹したため、原因は謎のままである。しかし、原因諸説が推測されている。


浅野内匠頭_切腹の図

---続く---


浮世絵_忠臣蔵

 独裁政権である徳川幕府の統治下では、当該刃傷(にんじょう)事件(じけん)の沙汰の過ちや内幕は、報道管制で隠し通されてきたようだ。

そのために庶民が此の事件とその措置を知ったのは、約半世紀をも経てからといわれている。今では信じられない事実である。

今日でもそのような体制にある国家は少なくはない。


人形浄瑠璃_刃傷・松の廊下

「一方的に処罰された旧浅野家とその藩士が、吉良の仇討をした」という忠義・忠誠を貫いたイメージ。 それが武士道の鑑として描かれた人形浄瑠璃(芝居)「仮名(かな)手本(でほん)忠臣蔵(ちゅうしんぐら)

それが寛延元年(1748年)8月、大坂竹本座にて初演されると、当時の江戸町人たちの間で、「忠義」、「忠義」 と、やんや、やんやの喝采となり、大センセーションを捲き起こした。 以来「忠臣蔵」の名で知られている。



赤穂四十七士を「いろは」の四十七文字になぞらえた「仮名手本」、そして「忠臣・大石内蔵助」から、「忠臣蔵」としたとの説が一般的である。




雪の夜の 討ち入り

赤穂浪士_引き上げの図


今や史実として伝わっているのは、後世、近松門左衛門が描いた仮名手本忠臣蔵の物語である。


江戸後期から明治以降にかけても浄瑠璃、歌舞伎、講談、浪曲等で忠臣蔵は人気があり、現代に至っては映画、TVドラマ等で広く紹介されてきた。


しかし平成の時代となり戦後世代が大半となった今日では、その意味を知る輩も少なくなったのではないか?

毎年1214日が近づくと、関係する地元では、忠臣蔵の特別番組で祭典が開催されている。



江戸幕府が滅亡し新しい社会体制となり、その憚りがなくなった明治以降では、登場人物の名を実名で上演することができるほど、自由さが社会通念となってきたようだ。



地元での 赤穂_義士祭り

       

年末ドラマ 今でもあるのかな?


だんだんと薄れゆく、 忠義心を唄った忠臣蔵を、 後世に伝えるために。

 

---続く---