『沈黙ーサイレンスー』。 | 雨の降る日も晴れた日も

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日々の感じた事を綴ります。

 
さて。
 
少し映画に関する感想も書いておきましょうか。
 
ネタバレな部分もあると思いますので、その点はご容赦ください。
 
もちろんいつもの妄想(暴走ともいう)も(笑)。
 
 
 
 
真っ暗なスクリーンから、ただ虫の声が響き、『沈黙-サイレンス-』のタイトルで始まります。
 
本編はほとんど音楽はありませんでした。
 
記憶に残っているのは、ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールドさん)が捕縛され連行されるときに流れる三味線(琵琶?)の音ぐらいですかね。
 
BGMで煽らない分、映画の世界に入り込めるしかけだったのかな?
 
 
 
 
『沈黙』の主人公はもちろんポルトガル司祭・ロドリゴですが、もう一人の主人公はキチジロー(窪塚洋介さん)だと思います。
 
ロドリゴが随所で思い浮かべる「イエスの顔」。
 
これは原作では「ポルゴ・サンセポルクロに蔵されている彼の顔」とありましたので調べてみたのですが、映画に出てきたイエスの顔ではありませんでした。
 
 
青白い肌に、微かに哀しさを宿したような優しい大きな瞳、そして頭には荊の冠。
 
(誰かに似てるなぁ)
 
と、思ったのですが、これ、キチジロー役の窪塚洋介さんに似ているような気がしました。
 
 
 
キチジローというのは弱虫の卑怯者で、家族が皆、踏絵を拒否して火刑に処せられる中、どうしても殉教することが出来ず、踏絵を踏む転びキリシタンです。
 
何度も何度も踏絵に足をかけ、その度に後悔するのですが、教会が教える信仰ではどうしても彼は強くなれませんでした。
 
まぁこれが、踏むは踏むは(笑)、いっこうに棄教しない「強き信徒」たちに対する、踏絵を踏むお手本(by奉行所)にまでされる始末。
 
奉行所の役人に、「見よ。造作もないことであろう」と言われるのですが、キチジローにとって本当に踏絵を踏むことは「造作もないこと」だったのでしょうか。
 
踏んでも踏んでも、棄てても棄ててもやっぱりロドリゴのもとに戻ってくるキチジロー。
 
「造作もないこと」だから簡単に踏んで、簡単に戻ってくる、とも言えますが、肉体の苦痛の恐怖(現実)がほんの少しだけ、(教会の)信仰を捨てる恐怖つまり魂の苦痛の恐怖に打ち勝ってしまうだけで、本当は彼だって出来ることなら「強き信徒」として生きたかったのだと思います。
 
 
 
ちなみにこのキチジローの通報によってロドリゴは捕えられてしまうのですが・・・。
 
そのきっかけとなったのはロドリゴの「私は渇く」の言葉だったような気がします。
 
「聖書の言葉ですね」とつぶやいた時のキチジローの表情。
 
 
ロドリゴたちポルトガル司祭はいつも「上から目線」でした。
 
丁寧で親切ですが、上から目線でした。
 
「我、乾く」というイエスの言葉にロドリゴが自分を重ねている、と思ったのかもしれません。
 
しかしロドリゴはイエスではないし、キリスト教は現実世界の自分を救ってもくれない。
(告解は聴いてくれるけど)
 
そんなロドリゴに、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、キチジローは一矢を報いてみたかったのかもしれません。
 
自分だって同じ人間だ、と。
 
 
 
捕縛されてからロドリゴの通訳を務める通辞(浅野忠信さん)も、
「(パードレは)教えるばかりで学ぼうとしない」
と、ポルトガル司祭達の傲慢さを指摘していました。
 
通辞はポルトガル司祭から言葉を習ったそうです。
 
出世の手段のためにポルトガル語を習っただけの関係だったのかもしれませんが、もしかしたら既存の宗教(仏教)では掴めない「何か」を求めて、新しい宗教に近づいた日本人の一人だったのかもしれませんね。
 
そしてそれが得られず(神の沈黙)、やがて迫害する側に回った・・・とか?
 
 
余談ですが、浅野忠信さん、カッコよかったです。
 
初めて浅野忠信さんを「カッコいい」と思いました(笑)。
(お髭剃って、ずっと武士の恰好していればいいのに・・・笑)
 
 
 
宗教に近づこうとする人は、何かしら苦悩や悲しみを持っているのかもしれません。
 
あ。
 
もちろんポルトガルとの交易(奴隷貿易含む)という「利」のみでキリシタンになった人たちも一定数いたのでしょうが。
 
 
最初は好意的に受け入れられたものも、禁教となった時代には有難迷惑以外の何ものでもなかったのでしょう。
 
ロドリゴは「真理」とは普遍であり、それは日本でも受け入れられるはずのもの、と、途中まで信じていましたが、彼の信じる聖書のどこかに、「すべてのことに時がある」とありましたよね。
 
聖書に「真理」が書かれているならば、何も押し付けをしなくても、本当に必要な時に必要な人に、彼らの神様は訪れるのでしょうに。
 
 
彼らの優しい傲慢さのため、たくさんの日本人信徒が殺されて行きました。
 
最後に、ある「音」に関して勘違いしていた自分の「罪」と向き合った彼は、とうとう踏絵を踏みます。
 
それは教会という群れを裏切る行為ではありましたが、彼にとって本当の神を見つけた瞬間だったのかもしれません。
 
 
冒頭述べたイエスの顔が消え・・・。
 
 
 
数年たって彼の傍にいたのはあのキチジローでした。
 
ロドリゴの従者となって彼に仕えていたのです。
 
 
「ありがとう。そばにいてくれて」
 
と、ロドリゴはキチジローに言います。
 
やっと一対一の人間として二人が向かい合った瞬間だったのかもしれません。
 
そして、それまで弱虫で卑怯者だったキチジローが、本当に「強き者」に変って行くきっかけだったのかも。
 
 
 
原作者の遠藤周作さんは、イエスに「永遠の同伴者」としてのイメージを持っていらっしゃったようです。
 
四国のお遍路さんの「同行二人」のように。
 
 
いつしかキチジローはロドリゴのイエスになっていたのかもしれませんね。
 
『テス』や『孤独のススメ』を見た時にも感じたのですが、群れから離れた人にしか見つけられない「神」もある、ということでしょうか。
(それは「教会」という群れにとっては「悪魔」と映るのかもしれませんが・・・)
 
 
 
他にもいろいろ書きたいこともあるのですが、この辺で止めましょう。
 
 
個人的には片桐はいりさんの「告解(コンヒサン)」の場面が気に入りました(笑)。
 
 
 
エンドロール。
 
虫の声、波の音、雷の音・・・。
 
「神」は「火水」。
 
日本人は自然の中にしか神を見出すことが出来ない、とロドリゴの師であり、やはり棄教司祭のフェレイラ(リーアム・ニーソンさん)が言いますが、(当時の?)西洋人は大切なことを忘れています。
 
人間も自然の一部なのだ、ということを。
 
その内側に「神」を宿した存在なのだ、ということを。
 
 
 
とても味わい深い映画でした。
 
また、見たいです。