お茶とお能。
世間では所謂「ハイソ」な趣味の範疇らしい。
ハイソぉ?
ハイジなら知ってるけど。
別に私はハイソな人間ではない。
しかし・・・。
何故惹かれるのだろう?
さっきね。
フッと落ちてきた答えらしきもの。
お茶。
予め棚が置かれていることもあるけれど、基本は何もない畳敷きの部屋に水指から始り茶器、茶碗、そして建水、柄杓と運びだし、点前を行い、最後は水指を水屋に引いてお仕舞にする、という平点前。
後には何も残らない。
お能。
予め作り物が置かれていることもあるけれど、基本は何もないお舞台に囃子方、地謡が登場し、ワキ、シテが登場し一つの物語を舞い、シテ、ワキ、地謡、囃子方とお舞台を去る。
後には何も残らない。
ああ。
お茶もお能も人生なんだ。
ただ一席と。
ただ一つのお舞台と。
亭主が心を込めて点前するお席なら。
シテが心を込めて舞うお舞台なら。
それがどんなに無名の人であっても、心惹かれる時は惹かれるもの。
人の一生もね。
同じだな、と思ったのです。
私は寡聞にして未だ何かを持って生まれてきた人を知らない。
そして何かを持ってこの世を去った人を知らない。
何も持たずに生まれ、何も持たず死んでゆく。
本来無一物。
現世的な富を何も持たなくても、人生はその気になれば輝く。
無一物中無尽蔵。
「私たちが一生を終えてこの世に残るものは、生涯をかけて集めたものではなく、生涯をかけて与えたものである」
ジェラール・シャンドリ。
って誰だ?
集めたものも、与えたものも。
所詮はうたかた。
意味あるものはただ生き方のみ。
そっか。
ふふ♪
飽きっぽくて不器用な私が、お茶やお能に惹かれた理由がわかったような気がする。
現世をね。
器用に渡ってゆく術など持ち合わせずに生まれてきた私。
でもさ。
不器用なりに「生きてていいんだ」いや、「生きていかなきゃいけないんだ」ってことをお茶とお能から教えてもらったのかもしれない。
能動的に生きなきゃ、ね。
うん。
お茶にも、お能にも。
「呼んで」もらったのね。
在り難いことです。
うん。
※カテゴリ分け。
「お茶」にしようか「ひよこ能」にしようか迷ったんだけど…。
とりあえず「お茶」にしました。
この駄ブログを訪うてくれる人が多いのは「お茶」のほうなので…。