来世ねぇ・・・。
知ってどうすんの???
「いや、別に知りたいとも思いませんね」
相変わらず冷たく言い放つなーごさん。
すると宗教夫、
「だってさ、お宅も夫婦仲いいでしょ?」
「来世も一緒になりたいと思わない?」
へー、へー。
子供のいない夫婦が仲良くなかったら一緒にいる意味なんてないじゃん。
確かに仲良しである。
(と、思っているのは私だけだったりして!?!?!?・・・ぎゃっ!!!)
でも・・・。
ここはひとつ宗教夫を完膚なきまでに叩きのめしておかねば!!!
「ええ。一緒になれるならそれでもいいし」
「独りの人生ならそれでもいいし」
「あ、麻生さんか谷垣さんが『嫁になれ』って言ったら喜んで嫁きますよ♪」
(けっこう本気・・・オイオイ)
普段からこんなことを言っているので隣にいる夫くんも平然としたものである。
宗教夫、ちょっとびっくりしたような様子で、
「え?来世は一緒になりたくないの??」
ちっ。
何聞いてるんだよ。
誰も「一緒になりたくない」なんて言ってないじゃないか。
そりゃね。
気心も知れているし一緒にいて居心地もいい。
夫のことは大好きだ。
でもいつか必ず来る別れを考えたとき、ちょっとだけ「縁を結んだこと」に対する後悔(ではないけれど)というか、チクリと針で刺したような痛みを感じるのも事実なのである。
だから来世のことなんて今知ったって仕方がないと思うのだ。
禅の言葉に、「即今只今」というものがある。
過去のことを後悔するのも、未来のことを恐れ思い煩うのも。
それは自分の雑念が作り出した幻。
「今」の連続が過去であり未来に続くのだ。
一瞬一瞬の「現在(いま)」を生き切る。
もちろん過去を反省したり未来に希望を持つことに意味がない、と言っているわけではない。
今世を一所懸命に生き切れば来世にはきっと「よきこと」が待っていると思うのだ。
たとえそれが傍目にはそう映らなくても・・・。
宗教夫はしきりに「他力」ということを強調していた。
(なんか知らんがきっとそういう趣旨の宗教団体なのだろう)
んなこたぁ分かってるよ。
「他力」もありがたい。
でも「自力」も大切なのである。
そんなことを冷徹に言い放つ私に、
「ねぇ、そんなに肩ひじ張って・・・疲れない?」
「ちょっと頑張り過ぎてない?」
「そんなに独りで背負い込まないほうがいいよ?」
と、きたもんだ。
はぁ?
は、ははははは。
これもいわゆる「マニュアル」ってヤツなのだろうか。
「疲れてるね」
「頑張ってるね」
こんな言葉でコロリ、ホロリと相手を落しましょう。
きっとそんな指示が出ているのだろう。
あのさ。
言ってもいい??
「あなたの話を聞いてるほうがよっぽど疲れる、って!!!」
(いえ、言ってませんけどね)
(態度には出ていたと思います)
(つづく・・・たぶん)