さてさて。
「袖の下」のおかげで私の給食ライフは明るいものになった。
この先生は家庭訪問の折には風呂敷を持って歩く、という噂のある先生だった。
依怙贔屓が激しく、「お気に入り」の生徒とそれ以外の生徒を区別していた。
「袖の下」以降、私も「お気に入り」になったようで、こっそりとなんだか訳の分からない人形劇のチケットなんぞをくれたりした。
自分のダメさ加減を棚に上げて、私はこの先生を軽蔑していた。
給食が全く食べられなかったわけではない。
かろうじてパンや牛乳、デザートは食べられた。
おかずも食べられるものはちゃんと食べた。
とにかく「お肉」類が徹底的にダメだったのだ。
3年生から6年生の4年間は同じ先生に受け持ってもらった。
やはりすんなりと「袖の下」を受け取る先生だったようだが、とくに依怙贔屓をされることはなかったのはありがたかった。
しかしその頃になると、私の心のほうが変化をしてきていた。
「みんな、この不味い給食を文句も言わずに食べている」
「私は自分の食べたいものだけを食べている」
「これはとっても卑怯なことではないだろうか」
と。
そして、私はパンと牛乳以外はいっさい口にしなくなった。
冷凍ミカンやプリンは好きだった。
カボチャのフライやコーンスープも好きだった。
でも、我儘をしている以上、好物だけを食べるのは「卑怯」なことなのだ。
こうして約4年間。
私の奇妙な給食ライフは続いたのである。
さて。
自分なりに奇妙な妥協点を見出した私は「給食」に対してますます依怙地になっていった。
当時、給食を1番に済ませた生徒がビニール袋を持って牛乳の蓋を集めて回る、という決まりになっていた。
「ふん、なにさ。ただの雑用係じゃん」
などと心の中で毒づいてみたりして。
でも本当は「憧れの係」であった。
ぜったい、ぜったい自分には回ってこない役だったから。
避難訓練で非常ベルが鳴る。
校内放送が、
「給食室から出火しました。慌てず避難してください」
と告げる。
「ふん、本当に火が出ちゃえば給食なんてなくなるのに」
と、とんでもないことを考えていた。
でも給食のおばさんたちの優しい笑顔を見るとそんな気持ちは萎えた。
(なんであんなに優しいのに作る給食は不味いのだろう?謎だ)
当時は人に対しても食に対しても「ダダクサ※」としか言いようのない関わり方をする子供であった。
※ダダクサ=いい加減、ぞんざい、粗末にする、の意。
中学からは「お弁当」だったので、気楽なものだった。
もう母も諦めて私の苦手なものは作らなかった。
母の作ってくれるお弁当は好きだった。
食べる量も少しずつ増え、体重もそれなりに増えていった。
身長は155㎝で止まり、40kgを超えたのは中学の3年頃だったか?
(高校に入ってからだったかもしれない)
でも幼少期の頑固な食生活のせいか、なかなか太れなかった。
「鎖骨のくぼみで金魚が飼えそうだ」
とは、口の悪い従兄の言葉だ。
「痩せすぎているので」
と、お見合いで断られたこともあった。
今はそれなりに体重も増えた。
公表できるような数値ではないので、ここではナイショ。
これ以上増えるのは御免だが、少しふっくらした自分の頬を見るのは嫌いではない。
「痩せている」ということに引け目を感じていたので、ま、こんなとこでしょう、って感じで。
もちろんこれ以上太るつもりはないので、そこは気を付けていきたいけど、ね。
以上、痩せっぽちだった子供時代の記憶にハタキをかけてみた。
今は小学生のうちからダイエットをするとか。
でも身長を高くしたいんだったら、きちんとした食生活をしたほうがいいよ、とアドバイスしてみるテスト。
そして「好き嫌いが多い」というのは大人として(いや、人として)かなり「恥ずかしい」ことなんだよ、と言ってみるテスト。
でも、苦手なものはやっぱり食べられない。
今こそ、この困ったチャンは「くま」の警策でお尻をピシリ!とされなければならないのであろう。
(でも、食べないけどね~)←頑固者!