朝に道を聞いて夕べに死すとも可なり | リモーネのワクワク

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今夜の仲秋の名月です照れ



中学一年生の時でしたか、ある日母方の祖父👴がリモーネ👧にぽつりと言いました。


👴「『朝(あした)に道を聞いて夕べに死すとも可なり』という言葉がある。

朝、ものの道理(真理)と言うものがわかったら、夕べに死んでもいいということ。」

『論語』の《里仁》リジン編にある言葉です。

《里仁》リジンとは、儒教の根本的教えである【仁】すなわち【真心の徳】の有り様を説いたものだそうです。


秋の夜長など、静かな時間になるとこの言葉を思い出します。

過去には10年に一回くらいは、最初は学校で、そして新聞や書物などで文字として出会ったりしていました📚


名著とおなじで、年月を重ねる中で、思い出したり、出会ったりする度に理解が深まっていく気がします。


秋になったら🍂ブログにこの言葉を書いてみようと思いついたら、気がつくと頭の中にずっとこの言葉が居座っています。


そして、心の中で問いかけています。



👧最初に、この言葉を聞いたときは、まず、の意味がわからないし。


朝にわかって、夕べに死んだらもったいないから、最初から探さなくてもいいんじゃないのか?

とか

大人になってからは、ゆっくりしてないで、このというものを早く見つけるにはどうしたらいいのか?と、いろんな本を読んでみたり…


その頃は、早く悟りたくて焦っていたように思います。

焦りとはそれ自体が、悟りとは程遠いことなのに…

宗教や哲学の本を読んで勉強してわかることではないと言うことには、どこかで気づきました。  


そして、見つける事に必死にならずに、(必死になるのは欲があるという事ですね。これは違うな~と)

道を求めて生きていたら、何かがわかるのかなと、それは死ぬ前だとしてもいいと言われてるのだから、時間を超越したものなのかもしれませんね。


生きてる意味は『考える』ことでは見つからなくて、『気づく』のではないかと思えるのです。



それこそ、瞑想して悟る人もいるのですから、人それぞれなのでしょう。

どうも、これは、それぞれの生きる道を極めて行くうちにわかってくる事なのではないかと思います。



生きていると、理由もなく虚しくなったり、なんで生きてるのだろうか?とか考えはじめたりすることが誰にでもよくあります。


そんなときは、えてみるのも気づく前の一つの方法になることもあるかもしれませんが、意外に頭というのは、堂々巡りで同じ平面を回っていることがあります💫


だから、そんなときは一旦そこから離れて、そっと置いておくといいと思います。


これは、リモーネが物心ついて半世紀ほど生きてきた過程で思っていることですので、道の到達にはまだまだ程遠いと思っています。


また、10年経ったらどんな事に気づくのでしょう。


その進化を楽しみたいと思います。


祖父が、まだこの一文をその場で何回か言ってまる覚えできるくらいになった中学生の時にインプットしてくれた言葉、年を重ねるごとに思い出す回数が増えてきました。


今年の秋のお彼岸以降はずっと思い出して、出しっぱなしです。



一般的には、調べてみると
『道を聞いて』ではなく
『道を聞かば』になっていますが、
そうすると私が覚えられなくて忘れると思ったので、祖父が覚えやすくしてくれたのだと思います。


人は一日で、一番会話するのが自分自身です。

何かにつけて、いつも一問一答しているらしいです。

不思議な生き物だなあ?と思います。

祖父が亡くなる数年前、特定の宗教をもっていませんでしたが、リモーネと日常会話でない会話をした後で
「それから…」と言ったのに、

なんだか言い残す言葉を言われるのが、寂しくなり、リモーネはすっと逃げて行ってしまいました👧


あの場面を度々思い出すたびに、続きをいっぱい聞いておけばよかったと思います。


先ほど、思考が同じ平面で堂々巡り💫をしていると書きましたが、

先人の智恵は、人の心の進化の時にそっと2、3段の階段を差し出してくれるような気がしています照れ


秋に入り『内なる旅路』のお話をお送りしてきて、気づいたらこれが第三話となりました🍋




内なる旅路~第一話


内なる旅路~第2話


これで、このテーマは今秋は終わる予定でしたが、あともう一回増やして、最終回は、リモーネ流のちょっと楽しいかもしれない生き方についてお話してみようと思います🍋