坂田利夫さん死去 | 続アメマのおとしもの

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「アホの坂田」の愛称で親しまれたお笑いタレントの坂田利夫(さかた・としお、本名地神利夫=じがみ・としお)さんが29日、老衰のため、大阪市内で死去した。82歳だった。

コロナ禍で舞台から遠ざかり、近年は老人ホームに入所し、間寛平夫妻が最後を看取ったとのこと。

 

坂田利夫は大阪ガスに就職するも、芸人にあこがれて研究生として1965(昭和40)年に吉本新喜劇に入団。その後、先輩座員だった前田五郎と漫才コンビ「コメディ№1」を結成。1972(昭和47)年に名曲「アホの坂田」がレコード発売されるも、教育委員会からのクレームで廃盤に。不仲なコンビで有名だったが、晩年は結構仲良く楽しんで漫才をやっている感じでした。

2009(平成21)年8月に相方の前田五郎が吉本興業を解雇になったことで、コメディ№1は解散。その後はピンで活動し、劇場では若手とコントをやってました。

大阪でアホと言えば、藤山寛美か坂田利夫。オフでは恥ずかしがり屋で紳士だった坂田さん。最後は後輩で仲の良かった間寛平に看取られたそうで、芸人の最期は哀れな人が多い中で、幸せな最後だったと思います。

 

ここでは在りし日の坂田さんを偲んでみたいと思います。なお前田五郎さんの追悼記事と、画像が同じのも多いことをご了承下さい。

 

 

 

昭和41年11月中席 なんば花月のポスター。

吉本新喜劇の座長は秋山たか志、副座長に桑原和男と財津一郎。

そして平座員に前田五郎、船場太郎、坂田利夫。西川きよしは新喜劇を退団して、やすし・きよしを結成。

 

 

 

昭和47年6月中席 うめだ花月のチラシ。

コメディ№1を結成して5年目で、当時看板だったタイヘイトリオの次の位置に。まだ桂三枝の方が下ですね。

 

 

 

昭和48年5月中席 なんば花月の新聞広告。

幸子・幸朗、小文枝、ラッパ・日佐丸らベテランの中で、コメディ№1は堂々の人気者。

 

 

 

昭和52年12月下席 京都花月のポスター。

年末の客の入りの悪い時期の興行で、なんと入場料が1000円で、こんな豪華メンバー。と言っても当時はまだ阪神・巨人やのりお・よしおは若手で人気が出る前で、実質的な看板はコメディ№1と木村進ぐらい。

 

 

 

昭和53年7月下席 なんば花月のチラシ。

まだ80年代漫才ブーム前で、仁鶴、コメワン、可朝、カウス・ボタンが人気の時代。

 

 

 

昭和58年5月上席 京都花月のポスター。

漫才ブームも下火になった頃のゴールデンウィーク興行。コメディ№1は漫才でなく、「爆笑!!大芝居」という企画モノの出番。

 

 

 

昭和61年1月上席 京都花月のポスター。

正月興行でコメディ№1は珍しく吉本新喜劇の座長として出演。

 

 

 

平成6年11月 なんばグランド花月のチラシ。

この数年は毎月芸人を野外で撮影したチラシが使われてました。これは天王寺公園ですね。

 

コメワンは新喜劇出身ということで、テレビ用の芝居にも出ることが多く、「あっちこっち丁稚」「吉本コメディ」が有名です。以下は台本関連のリンクです。

 

昭和63年3月下席 なんば花月。

この日はコメワンがトリ。当時カメラでの撮影がOKだったので、坂田さんにカメラを向けると、大概こんな感じでポーズを取ってくれました。サービス精神旺盛です。

 

 

 

昭和63年7月下席 うめだ花月。

この日はかなり早い出番。やっぱり坂田さんはポーズしてくれました。

 

 

 

昭和63年8月下席 うめだ花月。

真ん中あたりの出番だったかな?

 

 

 

平成元年10月上席 うめだ花月。

平成に入るとコントでの出番も多く、この刑事と泥棒のコントは良く見ました。

 

 

 

貴重な昭和64年1月6日にうめだ花月でもらった坂田さんのサイン。

 

 

長年に渡りアホ一筋の芸人を貫いた坂田さん。もう坂田さんのような皆から愛される「アホ」を売りにした芸人は出てこないと思います。もうあの世で前田五郎さんと会ってるかもしれませんね。

ご冥福をお祈りいたします。