タレントの寿一実(ことぶき・かずみ、本名中川一美、なかがわ・かずよし)さんが5日、長崎県内の病院で死去した。66歳。長崎県佐世保市出身。9日、所属の吉本興業が発表したもので、通夜・告別式はすでに家族と近親者にて執り行われた。
私のような新喜劇ファンにとっては、寿一実というより中川一美のほうがしっくり来るので、記事では後者を使わせてもらいます。
吉本所属前は劇団アカデミーに在籍し、吉本新喜劇へは1976(昭和51)年に入団し、現役では浅香あき恵と同期。当初はそう目立たない役どころが多かったですが、徐々に髪の毛が薄くなってくると、頭角を現して昭和60年あたりからは、重要な役どころだったりお話の芯であることが増えてきて、一時的にチーム制が復活した昭和61年には副座長に昇格。
ハゲをいじられることはあっても、個人の言葉のギャグはなく、結構お芝居中心の人でしたね。同じ座員だった中嶋恵美子と結婚していた時期もありました。
お芝居の上手さから、明石家さんまや島田紳助にも重宝がられていました。特に木村進の組で副座長格が多かったですね。しかし当時の新喜劇は人気が低迷。京都花月、なんば花月が閉館し、段々と新喜劇の活躍の場が少なくなっていく中で、平成元年10月に「吉本新喜劇やめよッカナ?」キャンペーンが開始。当初は新体制にも参加していましたが、水が合わなかったのか程なくして新喜劇を退団。
その後は芸人を辞めていましたが、吉本が福岡事務所を設立したのを契機に、寿一実に改名し復帰。その後は九州ではタレント活動を長年していました。
今回の訃報には驚いたと共に、残念で仕方がありません。
私の持っている資料で、中川一美さんを偲んでみたいと思います(既出画像も多いですが、ご了承下さい)。
昭和52年9月下席 京都花月のポスター。
まだ入団1年ぐらいの頃で、座員の序列でも桂木甲介(高石太)に続いての一番下。同期の浅香秋恵も同じ木村進組。
その後、昭和54年~57年は寛平組、57年11月には再び進組になったときに、同じ組の佐藤武司、前田国男、浅香秋恵、高橋和子らとセブンエースというユニットを結成します。
マンスリーよしもと1983年7月号より。
セブンエースがオレンジルームで「勝田君からの手紙」という公演を行った記事。今ならセカンドシアターでやりそうな新喜劇の若手公演。当時は会社が意欲的でなかったのか、こういうイベントは長続きしませんでしたね。
昭和63年10月28日 うめだ花月 第6回劇団金曜日公演「コートにはまだはやい」のチラシ。
当時の新喜劇の活動に危機を感じた中川一美は、若手の内場勝則、未知やすえらと共に「劇団金曜日」を立ち上げます。この時も脚本を南河内万歳一座の内藤裕敬に依頼し、意欲のほどがうかがえます。
この公演は見てませんが、何本か劇団金曜日を見ましたが、結構面白かったですね。ただ、平日の夜の部新喜劇のあとにやってたので、居残りの客相手だったのが残念でした。
昭和63年8月26日 うめだ花月での劇団金曜日公演。左から中川一美、未知やすえ、浅香秋恵。
昭和60年6月下席 なんば花月 ポケット・ミュージカルス「浪花夫婦駒」の中川さんの台本。
出演は長谷川ひろし、高石太、中川一美、小林一郎、柳井幸多朗、森公平、赤川喜久夫、高橋和子、国分恵子。
昭和62年7月下席 うめだ花月 ポケット・ミュージカルス「上海クロニクル」。
左から 内場勝則、中川一美、未知やすえ、天野久美子。
平成元年10月上席 うめだ花月 ポケット・ミュージカルス「おかしなおかしな刑事物語」。
左から 中川一美、島木譲二。
この日は10月1日で「吉本新喜劇やめよッカナ?」の初日でした。
昭和61年10月下席 京都花月のポスター。
木村進の次に「点と点」で副座長の枠に、中川一美。翌年3月に閉館となる京都花月での最後の新喜劇でした。
寿一実(中川一美)さんのご冥福をお祈りいたします。