木村進さん死去 | 続アメマのおとしもの

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吉本新喜劇座長として人気を集めた喜劇俳優の木村進(きむら・すすむ)さんが19日午後3時14分、腎不全のため大阪市の病院で死去した。68歳。
 
我々40代以上の新喜劇ファンにとっては、進ちゃんは新喜劇のスーパー座長。二枚目・三枚目・爺さん・婆さんなんでも出来て、その上踊れるし、殺陣は出来るしと、ホントに素晴らしい役者でした。
昭和45年に吉本新喜劇に入団。昭和49年6月、間寛平と共に座長に昇格。その後昭和62年に三代目博多淡海を襲名して、昭和63年に脳内出血で倒れるまでの約14年間ずっと座長でした。
倒れてからは吉本もやめて、施設などの慰問公演を高石太らとやってたりもしましたが、メディアに出ることもなくなり、すっかり過去の人になっていましたが、こうして亡くなって大々的に新聞やテレビで扱われていることに、やはり大スターだったことを再認識しますね。
 
私が新喜劇をホントに熱心に見始めた頃は、木村進・間寛平・室谷信雄の三座長時代。今の新喜劇と比べ物にならないほどエネルギッシュで、しかも泣きの芝居もあったりと、コメディでなくお芝居でした。
良く組んだ室谷さんや山田スミ子さんも最近亡くなられ、昭和の吉本新喜劇スターが次々と鬼籍に入り寂しい限りです。進ちゃんは素晴らしい芸を持ちながらも、お酒がそれを全てダメにしてしまったのが、残念でなりません。もしお酒を控えていて、今でも現役であれば、今日の新喜劇もまた違ったものになっていたかもしれませんね。
 
さて既出画像ではありますが、少しだけ進ちゃんを偲んでみたいと思います。
 
 
 
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昭和47年12月下席 うめだ花月の新聞広告。阿吾十朗が座長で、まだ進ちゃんは寛平ちゃんと共に若手座員。
 
 
 
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昭和49年6月中席 なんば花月の新聞広告。檀上茂作・演出「雲の行くさきは」で、ついに座長昇格。マドンナの片岡あや子、専科の平参平はこの組でほぼ固定した組み合わせになります。新体制移行時期なので、この二ヶ月後に座長昇格する伴大吾も出てますね。このメンバーで現役は島田一の介だけ。
 
 
 
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昭和51年8月下席 京都花月のポスター。  この年の3月から木村進と間寛平がそれぞれ単独座長となりました。「喧嘩の後のキスの味」は進・あや子の新婚家庭でも嫁姑戦争。もちろん姑は桑原和男(笑)
 
 
 
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昭和55年10月31日 なんば花月特別興行「木村進・間寛平のジョイントリサイタル」の台本。
花紀京や岡八郎まで出ての新喜劇オールキャスト。進・寛平・室谷・スミ子を中心とした時代劇とバラエティーショーの二部構成。
 
 
 
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昭和54年1月上席 うめだ花月 ポケット・ミュージカルス「文珍・進の初笑い」(「進・文珍の初春一番」に改題)。
珍しい組み合わせのポケットで、進・文珍・室谷のコント。
 
 
 
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昭和56年1月中席 京都花月、1月下席 うめだ花月 「花月爆笑劇場」の台本。
「男と女」のタイトルで、温泉旅館を舞台に進とスミ子の新婚旅行に、父親の原哲男がついてきてしまう騒動。
 
 
 
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昭和59年11月上席 なんば花月 「お笑い花月劇場」の台本。
「逆噴射野郎」は進・寛平・室谷の三座長が揃っての最後の新喜劇まつり。三人の若手サラリーマンの出世争い。
 
 
 
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昭和57年10月31日 なんば花月特別興行は「秋の吉本新喜劇まつり」と題して、木村進特別公演。
進ちゃんは一心太助で世直しをするヒーロー。
 
 
 
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昭和58年5月31日 なんば花月特別興行は木村進スペシャル「進の無法松」。
九州出身の進ちゃんにとっては、無法松は憧れの役。
 
 
 
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昭和60年8月 なんば花月 マンスリーよしもとのプログラム。なんと全席進ちゃんが座長を務めてます。この月は上席に特プロもあったし、7月下席も出番だったので、5本連続進作品を上演。しかし残念なことに、この8月下席の作品で、朝日放送のテレビ中継が一旦終了してしまいました。
 
 
 
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昭和61年3月下席 うめだ花月「俺の阿呆マンス」  おしん婆さんが息子と再会するも、母親と名乗れずに別れてしまう涙のお芝居でした。
 
 
 
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昭和61年7月31日 なんば花月特別興行「旧人類の恋」  売れない作家の恋物語を熱演。
 
 
 
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昭和62年5月中席 なんば花月「涙のジューンブライド」 三人目の嫁になる風間舞子との共演。まぁあんまりエエ嫁ではありませんでしたがね。
 
そして昭和62年9月に三代目博多淡海を襲名。
 
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昭和62年9月下席 うめだ花月 ポケット・ミュージカルス「博多淡海ショー」では踊りを披露。
 
 
 
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そしてお得意の股旅物もやって、芸の広さを見せてくれます。
 
 
 
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昭和62年9月下席 うめだ花月「プッツン婆さん奮戦記」  二代目博多淡海とは違った、現代的にしたプッツン婆さんを熱演。
吉本新喜劇とは少し違った博多淡海劇団として、新たな道を作って行こうとしますが・・・。
 
 
 
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昭和63年3月下席 なんば花月「プッツン婆さんナイスローラー」 私がカメラを向けると、おしん婆さんVサイン(笑)
 
 
 
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昭和63年4月下席 うめだ花月「ぷっつん婆さんと芸能界」 朋友間寛平とも良く組みました。
 
しかし淡海劇団は徐々に失速。ゲストにあき竹城を迎えたりもしましたが、ダメでした。ついに7月上席を最後に淡海劇団という名称は使わずに、淡海主演の吉本新喜劇という感じになり・・・。
 
 
 
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昭和63年9月中席 うめだ花月のポスター。吉本新喜劇は船場太郎と「秋風の気まぐれ」
この翌月に博多淡海襲名の巡業中に飲酒による脳内出血で倒れ、左半身不随という役者にとっては致命的な引導を渡されてしまうのです。それが原因で吉本を辞めたので、この「秋風の気まぐれ」が花月の最後の出番となってしまいました。
 
 
 
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その「秋風の気まぐれ」を私は見に行き、終演後にサインを貰いました。
 
 
 
長々と既出画像をご覧いただきましたが、それだけ私も進ちゃんに思い出がたくさんあります。本当に楽しく泣ける吉本新喜劇をありがとうございました。
あの世で先に逝った先輩方と、芝居談議に花を咲かせて下さい。ご冥福をお祈りいたします。