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今日は何を読むのやら?(雨彦の読み散らかしの記)

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北海道・根室から釧路にかけて広がる根釧原野。

「灰色に塗りつぶされていた世界に乳白色の明るみがまじった。夜が明け放たれたらしい。ときどき霧がうすくなって、描き出されたように北葦の原っぱが現れた。黄金色にゆれながら地平のあたりまで続いている。と、また濃い霧にとざされてしまった・・・」

加賀乙彦の長編小説のタイトルになっている「湿原」は、幻想的、神秘的な風景として描写される。

人間社会から遠く隔てられた湿原は、野生動物が自由に生きる世界だが、危険な場所でもある。

湿原の下には、何千年、何万年もの間に堆積したどろどろの泥炭層が底なしに続いている。

底なしの水溜まりに足を取られれば、あっという間に吞み込まれてしまう。

(その底なしの水溜まりは、地元では「谷地眼」(やちまなこ)と呼ばれている)

 

 

この土地で生まれ育った主人公・雪森厚夫は、故郷から長年離れて生きている。

だが、彼の人生は、湿原のぬかるみに足を取られ続けるかのように、つまづきの連続である。

 

彼は、刑務所の壁の向こう側に何度も落ちた過去の影を背負いながら、自動車整備工として働いているが、またいつか自分が転げ落ちてしまうのではないかという漠然とした不安におびえ続けている。

 

そんな彼が、すべての不安や鬱屈から解放され、自由になれる時間が、スケート場のアイスリンクの上を滑走し、また、スケート靴の刃で幾何学的な図形を描くときだ。

「強いて分析すれば、それは重力の影響を離脱する感じである。歩いているときは一歩一歩を自分の力で移動していくが、滑っているときは氷の表面に身を任せきっている。しかも氷の表面は完全に水平であって、重力の作用を断ち切っている。スケートをするのが、羽をひろげて空中を滑空する鳥の感覚に似ているのはそのせいなのだ」

湿原の上の空を飛ぶ、自由な鳥に憧れる厚夫は、そのスケート場で軽やかな舞を見せる大学生・池端和香子と出会う。

いくつかの偶然が重なり合い、厚夫と和香子は思いがけない運命の渦に呑み込まれていく・・・

 

日本に学生運動が吹き荒れていた時代。

過去の犯罪歴のために冤罪事件に巻き込まれていく厚夫の心理を、作者は丹念に描き出している。

 

なぜ、彼は堕ちていってしまうのか。

彼の強靭な肉体とは裏腹な、心の弱さはどこから来るのか。

 

彼の人生での最初のつまづきは、「物を盗む」ことから始まっている。

欲しいと思ったものを、盗んでしまわずにはいられない。

手にしたお金を、使ってしまわずにはいられない、

 

欲望に対する抵抗力のなさ、心の弱さが、立ち直ろうとする彼自身の努力や、周囲の人の愛情や理解を裏切り続ける。その姿には、ときには絶望を覚えてしまう。

 

だが、彼の心の弱さは、彼だけのものなのか。

誰の心にも、弱さは抱え込まれているものではないのか。

 

厚夫という人物像を、残酷なまでに容赦なく、執拗に描き出した作者の心には、底なしの水溜まりの周りを歩いている人間は厚夫だけではない、という想いがあったように思えてならない。

 

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1983年~1985年(昭和58年~60年)に朝日新聞に連載された小説。

令和の今とは時代が違うかもしれませんが、日本の司法制度についても考えさせられる内容でした。

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今日もお読みいただき、ありがとうございました。

 


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最近、チャットGPT(対話型AI)がメディアを騒がせていますが、4月9日の読売新聞の朝刊では、こんな見出しの記事が1面トップに躍り出ていました。

「チャットGPT 大学が対策 東大や上智 論文で利用制限」

 

質問に応じて自然な文章を作成する対話型AI(人工知能)「チャットGPT」を巡り、国内の大学が相次いで対策に乗り出した。リポートでの利用を制限したり、情報流出の危険性を学生に注意喚起したりする動きが広がっている。専門家は、教員側の対応が求められると指摘している。

 

上智大は3月27日、学生と教職員に対し、「成績評価における対応方針」を公式ウェブサイトで公表。リポートや学位論文でチャットGPTなどのAIが生成した文章や計算結果などを、教員の許可なく使うことを禁止した。AIが生成した文章を検知するソフトを使うなどして、論文などでの使用が判明した場合、「厳格な対応を行う」としている。

 

 学生にAI自体の利用を禁止することはできないため、各大学の対応は、リポートでの使用制限や注意喚起が中心だ。

 

 東京大は今月3日、他の対話型AIなども含めて「生成系AIについて」と題した文書を学内向けサイトに掲載。「リポートは学生本人の作成が前提。AIのみを用いて作成することはできない」などとした。

警戒感がこれほど高まっている背景には、情報漏洩リスクに加え、著作権侵害や、AIが誤って回答する懸念もあると思います。

同時に、その利便性の高さが侮れないという評価もあるせいではないでしょうか。

 

かく言う私も、試しにチャットGPTにアカウントを作り、AIで英語の日記文を作成してみたのですが、その速さと文章の自然さに舌を巻いたばかり。実例としては、こんな感じです:

 

<チャットGPTへの質問>

次の要素を用いて英語で日記を書いてください。

・昨日私は鎌倉を散歩した。

・まず、北鎌倉駅に行き、円覚寺を参拝した。

・方丈という建物で、仏心という書を見て感動を覚えた。仏心とは何かを思索した。

・次に建長寺を訪れた。

・半僧坊に登り、鎌倉の海を見た。快晴で富士山がよく見えた。

・ハイキングコースを歩いて、報国寺に行った。竹が多い寺として知られる場所だが、人が多く混んでいたので、あまり楽しむことができなかった。

・たくさん歩いたので、足が痛くなった。

<チャットGPTの回答>

Dear diary,

Yesterday, I took a walk in Kamakura. It was a beautiful day, and I wanted to explore the sights in the area. I started by going to Kita-Kamakura station and visited Engakuji temple. The temple was peaceful and serene, and I was deeply moved when I saw the Buddhist calligraphy called "fushin" in the Hojo building. It made me contemplate what "fushin" truly means.

After that, I went to Kenchoji temple. I climbed up to the Hansobo and saw the sea of Kamakura. The view was breathtaking, and I could see Mt. Fuji clearly on the horizon on this sunny day.

I continued my walk by hiking along the trail to Hokokuji temple. This temple is famous for its bamboo grove, but it was crowded with people, so I didn't enjoy it as much as I had hoped.

By the end of the day, I had walked a lot, and my feet were sore. Despite this, I enjoyed my time in Kamakura, and I hope to return soon.

Yours truly, [Your Name]

 

「仏心」が "fushin"になっているところは、さすがに難しかったようですが、それ以外は滑らかで自然な英語のように見えます。

英語力のトレーニングのために、日記を英語で書くという方法があると聞きますが、いかんせん英語表現力のつたなさが気になって、なかなか実践が難しいというのが現実です。

AIが提案してくれた英語の例文を目にすることで、アウトプットできる語彙も増えそうです。

さらにAIの回答で驚くべきなのは、最初の日本語にはなかった要素が追加され、日記らしく仕立てられているところ。

日本語に逆翻訳してみると、こういう文章になります(下線部分は、AIが追加):

 

<DeepL翻訳による日本語訳>

昨日、鎌倉を散歩してきました。天気が良かったので、周辺の観光スポットを巡りたいと思ったからです。まず北鎌倉駅に行き、円覚寺を訪れました。円覚寺は穏やかな雰囲気で、方丈にある「普請」という仏教の書を見たときは、深い感動を覚えました。普請とは何なのか、考えさせられました。

そのあと、建長寺に行きました。半僧坊に登り、鎌倉の海を眺めました。その景色は息をのむほど美しく、この晴れた日には水平線に富士山がはっきりと見えました。

さらに歩を進め、報国寺への道をハイキングしました。このお寺は竹林で有名なのですが、人が多くて思ったほど楽しめませんでした。

一日の終わりには、たくさん歩いたので、足が痛くなりました。しかし、鎌倉での時間を楽しむことができたので、近いうちにまた訪れたいと思っています。

「仏心」が、とうとう「普請」になってしまったのにはご愛嬌(笑)ですが、全体の体裁が整えられていて、日記らしい文章の書き方をAIに教えられます。

最初の注文にはなかった文章が勝手に追加されていますが、結果としては特に違和感のない文章になっています。

 

これほどに便利であれば、今どきの学生たちが手を伸ばす気持ちはわかろうというものです。

読売新聞の記事の続きです。

7日に行われた京都大の入学式では湊長博学長が、AI生成の論文には問題が多いと指摘。「文章を書くということは、非常にエネルギーを要する仕事だが、皆さんの精神力と思考力を鍛えてくれる」と新入生に語りかけた。

AIに依存し過ぎていては、人間の知能が鍛えられず、知力が衰える。

一方で、人間個人の知能には限界がある。

トーマス・ランドアーの研究によると、人間の脳内にある知識のスペースは1GB(ギガバイト)程度。

学生のノートパソコンの長期保存用のメモリのサイズである256GBや512GBに比べれば、その数百分の一に過ぎません。

自分の持っていない知識を活用しながら人々は日常を生きているのだと、「知ってるつもり 無知の科学」の中で、スティーブン・スローマンとフィリップ・ファーンバックは言っています。

 

進化したAIに支配されることなく、どのように上手く利用していくのか。

これもまた、人々が真剣に考えていくべき課題であろうと思います。

 

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今日もお読み頂き、ありがとうございました。

 


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先日、鎌倉の円覚寺を参拝してきました。

方丈という建物に、書家・金澤翔子氏の筆による「仏心」の屏風が展示されてあり、その力強さに圧倒されました。

 

 

長く続いたコロナウィルス対策の解除のおかげで、寺院内には外国人の姿も多かったのですが、

 

「 『仏心』 は、英語ではどう説明すればいいのだろう?」

「そもそも 『仏心』 とは何だろう?」

 

そんなことを考えながら、桜の季節の鎌倉のお寺を訪ねて回っていました。

 

 

円覚寺の管長・横田南嶺老師が書かれているブログを見ると

「みな人は仏心という、仏さまの心を持っている」

「生きとし生けるものは、みな仏さまの心をもっているという教えなのであります。」

人の心に神聖なものを認めるというのは、仏教という宗教の特色なのかもしれません。

 

脳科学者の茂木健一郎氏が、生物学者の長沼毅氏(広島大学大学院統合生命科学研究科教授)と、「科学と宗教の未来」というテーマで対話をしていますが、その中で長沼氏は仏教についてこう語っています。

「『仏教』 は何かというと、・・・シンボルというか、神聖なものを外側に置かない。

神聖なものを人間の心の本性に見る」

「仏教はまさに心の本性に神聖なものを見ようとするんです。」

これは、「人には仏心がある」にも通じると思いますが、長沼氏は、「仏性」という言葉を使いつつ、生物学的な考察を語っています。

「われわれ類人猿には『思いやり』が普遍的にある。

それは、仏教的に言えば『仏性』でしょう。

そこが、われわれ類人猿と他の動物とのちょっと違うところです。」

「単に勝てばいいとか、自分の遺伝子を残せればいいということではないんです。

類人猿でさえ、傷ついた個体がいたら助けるという行動が見られます。

みんなで助ける。あるいはボス猿が助ける。

遺伝子を調べてみると、別に血縁関係がない。

血縁がなくても、傷ついた仲間を助けようという行動が見られるわけです。

つまり、われわれ科学者は『仏性』と呼ぶべきものが人間だけでなく、類人猿にも具わっていることを知っているんです」

科学者である長沼氏は、「宗教もある意味で虚構なんですよ」と言い切っています。

「虚構を持っている集団の方が、虚構を持っていない集団より、よりよく機能するんだと思います」

宗教が、「進化論的な結果」である、また、虚構=フィクションだという指摘には、疑問やとまどいを感じる向きも少なくないかもしれません。

 

しかし、フィクションにも立派な意味や価値はある。

真実ではない虚構である小説や映画にも、人は感動し、涙する。

実社会でも、人々が共通の価値観、物語を共有することで、集団として、よりよい結果を生み出す。

「現代社会においては、宗教然り、あるいは国家も企業も然り。

ほとんどが虚構なんですよ。現代社会は虚構の上に繁栄してるんじゃないかと思います」

一方で、現実の世界に目をやると、人々の価値観の衝突によって分断を深めている社会もあれば、終わりのない紛争のために人々の苦しみが続いている国や地域もある。

 

こうした問題への解決方法を見つけることが本当に難しいことを、私たちは知っています。

ただ、たとえそれが現実であっても、人の心の問題を置き去りにし、科学技術だけに依存し続けていては、人々が共存できる未来は開けないのではないか。。。

 

人の「心」という、現代の科学が今も解明できない問題にアプローチするために、宗教、その中でも特に普遍性のある仏教には将来性があると、長沼氏は考えます。

 

「科学」と「宗教」という、相性が良くない二つのものの関係を見直すべきという長沼氏の意見は、加賀乙彦氏が著書の「科学と宗教と死」に書いていることとも相通じています。

「科学と宗教ははっきりと分かれているものではありません。

科学者はもっと道徳と宗教に注目して欲しい。

宗教は大変に長い歴史を持っています。

そこには科学とは別の、科学を支える叡知があると思うのです」

加賀氏はまた、キリスト教と仏教も、全く違う思想として対立するものではなく、表現方法に違いはあっても、深奥にあるものは共通していると感じると言っています。

さらに、仏教での念仏や座禅、キリスト教やイスラム教の祈りは、人知でははかり知れないものとの接触の場を作るための行為という点で、同じではないかと言うのです。

 

 

話があちこちに飛びましたが、終わりに大覚寺の横田師の説話の続きを引用させて頂きます。

「ただ仏心があるというだけでは駄目であって、それをしっかり坐禅して確かめることが大切なのです。

確かめたなら、その仏心をはたらかせてゆくことです。

仏心のはたらきは、慈悲にほかならないのです。

仏心の具わっていることを信じて坐禅して、仏心を自覚して、仏心をはたらかせて慈悲を行じるのが禅の教えといえます。」

仏教の長い歴史の中で、人の心を追求し続けてきた智慧が、ここには確かにあると感じられます。

 

「仏心」という言葉の意味を、言語や思想の壁を越えて、いつか伝えることができるようになればと思います。

 

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https://www.engakuji.or.jp/blog/33729/

 

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読売新聞夕刊に掲載されている、読者意見掲示板「発言小町」の最新版のトピックは、

「60歳過ぎたらおばあさん?」。

 

さまざまな意見が寄せられているが、

「還暦が節目でしょうね」という意見もあれば、

「50歳くらいまで、60代はおばあさんと思っていました。

60代になった今は、もちろん70歳以上または80歳以上と思っています」、

「何歳になっても自分からおばあさんなんて言いたくない」、

「でも孫に言われる分には全く気になりません」

など、発言者の年齢や立場によって、当然に意見も変わる。

 

「50代の9割が自分をシニアとは思わず、60代、70代の8割以上はシニアと呼ばれたくない」

という調査結果もあるらしいので、年齢と心の若さは区別してかかるべきということだろう。

 

加齢と老化は、確かに別物である。

 

 

今回読んだ本、「静子の日常」の主人公、宇陀川静子さんは75歳。

夫が亡くなってからは、息子夫婦や孫と同居して暮らしている(いわゆる、三世代同居家族)。

町内会のバス旅行で行ったホテルに温水プールが付いていたことをきっかけに、フィットネスクラブでスイミングスクールに通い始め、他の会員からは「可愛らしいおばあさん」と呼ばれている。

 

もともと水は大の苦手だったが、

「私は、もう、どこにだって行ける生き物に生まれ変わったんだもの」

と思う彼女には、新しいことを始めることへのためらいはない。

 

古風で落ち着いた様子の彼女が、ときどき、思わぬ場所に、思わぬ姿で出没することがある。

同居する家族の誰もが知らない行動を取っていることもある。

それが、なんとも痛快である。

 

静子さんの生き方に共感したり、憧れを感じたりするのは、彼女が信念をもって行動していること、そして、それが彼女の心に自由を与えているからだろう。

「静子は ― それも、信条の一つとして ― 後悔はしなかった。

でも後悔しない人生は、正しい人生というわけではないわね、と考えた」

彼女の人生にも、怒りや悩みの季節があったはずである。

それを乗り越えてきた人だからこそ持つことのできる、凛とした潔さがある。

「自由であるためには、心強くあらねばならないということも、今はもうわかっている。」

このおばあさんは、自分が他人からどう呼ばれるかなど、もはや気にしていないに違いない。

 

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なんと言うのだろうか。

とても良い作品だと思う。

 

小説への愛、そして、小説家だった父と、妻として寄り添い続けた母への思慕に満ちている。

そして、父の元愛人だった女性への深い理解にも。

 

筆者は、井上荒野。

父である井上光晴、父の愛人だった瀬戸内晴美(瀬戸内寂聴)、そして筆者自身もこの作品には登場する。

(瀬戸内晴美は、作中では「長内みはる」として登場し、出家して「寂光」となる)

 

瀬戸内寂聴という人のことは、これまではほとんど知らなかった。

映画にもなっている「花芯」で描かれた半生のように、世間から不道徳と言われようと、自分の欲求に忠実な生き方を貫いた人。

岡本かの子(岡本太郎の母であり、「金魚繚乱」などの作品を残した作家)の評伝である「かの子繚乱」を書いた人。

そして、出家した後も性愛小説を書いていた人、といった程度の知識しかなく、出家した経緯も知らなかった。

 

もちろん小説だからフィクションとして読まなければいけないというルールはあるが、登場人物(作家の妻と愛人)が一人称で語る形なので、実際の寂聴自身がこう考えたのだろうか、こう感じたのだろうかと、どうしても思えてくる。

まして、筆者は、モデルとなった人たちと実際に生きてきた人なのだ。

この作品を読んで、これまでは自分にとっては謎だった、寂聴という人の実像に少し近づけたように思う。

 

多くの女性たちと不倫関係を持った、作家の父(作中では、白木 篤郎)。

白木を「生来の嘘つき」、「どうしようもない男」と軽蔑しながらも、自分たちを強く引きつけてしまう、この「離れがたい」男に対して、妻・笙子と愛人・長内みはるは、どのように向き合おうとしたのか・・・

それが、この作品を貫いているテーマだと思える。

 

少し引用してみたい:

「ここに連れてきたのは、嫁さんのほかにはあんたがはじめてだよ」

白木は言った。嘘じゃないよ、と続けたからわたしは少し笑った。どうして彼はわたしをここに連れてきたのだろう。

行こうか。白木は腰を上げながら、わたしの手を取った・・・

 

わたしの体の奥底から込み上げてくるものがあった。この男がいとしい、とわたしは思った。どうしようもない男だけれど、いとしい。いとしくてたまらない。

白木との関係を終わりにしたいと、これまでにない熱量で思ったのも、同時だった・・・

 

 

登場人物たちの複雑な感情が絡み合う様子を描き切ったこの作品は、彼らの心理への深い洞察を持った筆者にしか書けない小説であることは間違いないだろう。

 

そして、これもまったくの蛇足だが、女性というものを理解していない男性が、心得として読んでおくべき一冊でもあるだろう。

 

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