少し前に読んだ「暇と退屈の倫理学」の著者である國分浩一郎氏が、その続編と位置付けているのが、この「目的への抵抗」というタイトルの新書本。
今回は、高校生や大学生たちに向けて行われた講義の記録で、内容も読みやすくなっている。
コロナ危機のためにオンラインで行われた2020年10月の講義と、2022年8月に大学で開催された講話の記録だが、参加した学生たちとの質疑応答もこの本には収められている。
若者との質問のやり取りでは、國分教授が講義で触れなかった論点が引き出されていて、対話ならではの面白さがある。
教授自身、「大学というところは本当にすばらしいところですよ」と言っているが、自由な意見の応酬がオープンに行われているところが刺激的だ。
本書では、主に二人の哲学者について、多くのページが割かれている。
一人は、コロナ危機の下、政府による厳しい行動制限に対して、疑問の声を上げたイタリアの哲学者であるジョルジョ・アガンペン(1942~)。
もう一人は、ナチス・ドイツから亡命したユダヤ系の哲学者で、全体主義との戦いを生涯の課題としたハンナ・アーレント(1906~1975)。
二人に共通するのは、「政治によって個人の自由が奪われることへの危機感」だろう。
確かに、政治によって社会が適切に管理されなければ、治安の維持や経済の発展、社会福祉も難しくなる。
一方で、「正しい目的」の実現のためには、いかなる手段も正当化されてよいのか。
そして、もっと根の深い問題は、目的の達成のために、個人の自由が奪われることに、人々が鈍感となり、抵抗しようとしないことなのではないか。
「目的」と「手段」の関係を考え続けたアーレントは、
「目的が立てられてしまえば、人間はその目的による手段の正当化に至るほかはない」
という。
目的の実現のために効果的な手段を求めていけば、最後には「恐るべき結末」が訪れる。
そうした合理性の追求が、ナチスに代表される全体主義の起源でもある。
一方、アガンペンは、新型コロナ対策として政府が実施した移動制限、ロックダウンに対して問題提起を行った。
ウイルスに感染して亡くなった人が、葬儀もされないままに埋葬されていること、またそのことに教会が沈黙を守っていることに、アガンペンは強い疑問を抱いていた。
あたかも生存することのみが価値を持つ社会とは、いったい何なのか?
だが、ウイルス感染拡大防止策に対するアガンペンの批判は物議を醸し、ネットでも炎上した。
本書では、アガンペンの主張自体の是非というより、この哲学者が、なぜ自身の主張への批判や反発にひるむことなく、コロナ危機への政府や社会の対応に疑問の声を上げ続けなければならなかったかという点を、掘り下げ、考えようとする。
かつてソクラテスは、アテナイの若者たちをたぶらかし、邪教を信仰したという理由で裁判にかけられ、死刑にかけられてしまった。
ソクラテスは、
「馬に付いた虻(アブ)のように、社会をチクリと刺して目覚めさせる存在」、
それが哲学者の役割だと弁明したという。
(ソクラテス自身は著書を残さなかったので、弟子のプラトンが、師であるソクラテスの言葉として伝えている)
コロナ危機を巡るアガンペンの言動も、このソクラテスが残したという言葉に通じるものがある。
ただ國分氏は言う。
「哲学に限らず、誰かが「社会の虻」にならなければならない」
「アガンペンのような哲学者が知識人として社会に対して警鐘を鳴らすという意味だけではなくて、皆さんのような人たちが哲学を学び、ものを考えるなかで、チクリと刺したり、チクリと刺されたりということが起こって欲しいんです。」
もちろん、個人の小さな主張が社会を変えるということは殆ど期待できないかもしれない。
しかし、國分氏は、マハトマ・ガンジーの次の言葉を、いつも心に留めているという。
「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。
そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」
また、
「人が発した言葉がいつどのような効果を発するかは予想できないということも付け加えておきたいと思います」
とも言われている。
すぐに社会が変わらなくても、意見を表明したり、考えたり、話したりすることは必要であり、意味がある。
「私は今日、先生のお話を聞いて世の中捨てたもんじゃないと思いました」
という高校生の発言に、この哲学講義が若者の心に響いたことがよく表われていた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~
今日もお読みいただき、ありがとうございました。
・國分教授が2020年に行ったオンライン講義は、東大TVのYouTubeで視聴ができます。
(約3時間とやや長いですが、本には収録しきれなかった質疑応答も含め、幅広い問題に触れられています)