東京都中野区にある哲学堂公園は、明治時代の哲学者・井上円了が「精神修養の場」として創設した、

世界でも類を見ない哲学のテーマパークです。

 広大な敷地内には、古今東西の思想を具現化した奇妙な建築物や彫刻が点在しており、散策するだけで自らの内面と対話するような不思議な体験ができます。ネットを検索すれば、。公園の風変わりな建築物や、シュールな彫刻群を捉えた写真はいくらでも出てきます。

私はここしばらく、アウグスティヌスが説いた「神の国」と「地の国」のに思いを馳せ、またある時は、聖フランチェスコの「ブラザー・サン シスター・ムーン」の詩的解釈を紐解いてきました。そんな神学の徒の目に、この場所はどう映るのでしょうか。

 

1. 哲理門(幽霊門)―― 認識の境界線として
まず、入り口に立つ「哲理門」です。別名「幽霊門」とも呼ばれるこの門には、幽霊と天狗の彫刻が納められています。これは、物質的な理屈では説明のつかない「精神的世界」への入り口を象徴しています。 アウグスティヌス的に言えば、ここは「地の国」の住人が、己の知性の限界を突きつけられる場所ではないでしょうか。人間の肉的な知恵(自愛)だけでは通り抜けられない、神の国への「悔い改めを伴う認識の転換」を迫る境界線のように思えてなりません。
2. 四聖堂 ―― 混合状態(ペルミクスティオ)の象徴
中心的な建物である「四聖堂」には、釈迦、孔子、ソクラテス、カントが祀られています。東西の知を代表するこれらが一つの「塔」の中に共存している姿は、まさにアウグスティヌスが説いた「ペルミクスティオ(混合状態)」を想起させます。 終末の時まで、神の国と地の国は歴史の中で複雑に混じり合っています。この赤い塔は、人間が到達しうる最高の知性が集められながらも、それらは未だ「一つの真理」を待ち望んでいる途上にあるのだという、歴史の過渡期を象徴する建築物に見えてくるのです。建物の鮮やかな「赤」と、天へと伸びる「垂直性」。 アウグスティヌスは、地上の平和もまた神の平和の影であると説きました。この建築たちが、世俗の公園の中にありながら不自然なほど天を指し示している様は、地の国の中にありながら、なお「神の平和」を希求してやまない人間の魂の渇望を具現化しているのではないでしょうか。
3. 彫刻家ワグナー・ナンドールによる『哲学の庭』
ちょっとシュール写真ですが、ひれ伏しているアブラハムから見て、外側の円を形成する5人の人物を時計回り(アブラハムの左手側から右手側へ)に並べると以下の通りです。
●エキナトン(アメンホテプ4世) 古代エジプトのファラオ。唯一神信仰を始めた人物として象徴されています。
●イエス・キリスト
●釈迦(ゴータマ・シッダールタ) 仏教の開祖。悟りを開いた姿で描かれています。
●老子 道教の始祖。東洋哲学を代表する一人として釈迦の隣に並びます。
●アブラハム(中心) ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の共通の父。ひれ伏して神の啓示を受けている姿です。

この円環の他にも、少し離れた場所に聖徳太子、ダルマ(達磨)、ガンジーといった、社会生活を向上させた「法の守護者」たちの像も配置されています。 非常に静謐で、世界の異なる思想が一つに集う不思議な空間ですよね。

 

4.「カテゴリーエラー」?としてのイエス・キリスト
哲学者の円陣の中に強引にイエス・キリストが引き込まれるていることに、少し違和感を感じるのは私だけでしょうか?
それは「神の独り子」という固有性を剥ぎ取られ、一人の「知の探究者」として相対化されている点に、一種の違和感を覚えますますネ。キリストは円陣の一角ではなく、中心そのものでなければならないからです。
思わず!イエス像に「主よ!こんなところで何をされてますか?
そのポジションはアウグスティヌス先生あたりがふさわしくないですか?どうかあなた様は円の中心に鎮座されたらどうですか!」と問いかけてみてます。
 銅像に話しかける変なおじさん!!これもシュール!!!
5.円
「友よ、鋭い指摘だ。たしかにヒッポの司教なら、喜んで私の代わりにここに立っただろう。
だが、思い出してほしい。私はかつて、神の身分を捨て、罪びとや取税人、異邦の知恵を求める者たちのただ中に、ただの一人の人間として座った。ここでも同じだ。
私は今、教理の玉座に座っているのではない。アブラハムが砂を噛む思いでひれ伏し、エキナトンが光を求め、釈迦や老子が沈黙のうちに真理を覗き込もうとしている、その『もがき』の円陣に、一人の友として加わっているのだ。

君が言う通り、私はここでは『啓示』そのものではなく、ただの『一人の男』に見えるだろう。だが、それこそが私の選んだ姿だ。 私がここにいるのは、知恵を競うためではない。彼らが探し求めている『見えない中心』の正体を、言葉ではなく、この同じ地面に立つ私の『隣り合わせの沈黙』によって証しするためなのだ。

……ところで、君も学問の重いリュックを一度下ろし、外から観察する『神学』もいいが、内側で共にもがく『歩み』も悪くないものだよ。君もこの輪に入ってみないか? 」  

 お断りします。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」

―― フィリピの信徒への手紙 2章6-7節

勧誘される前にサークルを後にし、進む私の前にあのお方が

 

6. ブラザーサン・シスタームーン
「ブラザー・フランチェスコ、あなたはなぜここにおられるのですか? 賢者たちの円卓に加わるおつもりはないのでしょうか。それにしてもあのアブラハムの長老……創世記の荒野から今日の中野に至るまで、主の足元にへばりつくことこそが魂の定位置であると、片時も疑うことはないようですね。」

「ああブラザー、あのアブラハム爺さんを許してあげてください。彼は今も、畏るべき『超越者』の重みに、ただ圧倒されているのですよ。彼にとって神様は、地を這ってでも仰ぎ見るべき『絶対なる他者』なのですから
私がなぜあの輪(サークル)に入らないのか、と? あそこの賢者たちは、言葉を尽くして『真理』を所有しようと躍起になっています。ですが私は、真理とは定義するものではなく、『すでにその中に生きて、楽しむもの』だと思うのです。 彼らが神様の『高貴さ』を論じている間に、私はこの風や太陽の中に、神様の『内在』――その柔らかな微笑みを抱きしめていたいのです。
結び・ケノーシスという名の橋の上で
「哲学の庭」を去り際、私はもう一度、あの不思議な円陣を振り返りました。 そこには、神の圧倒的な聖性に気圧され、サークルの中心に踏み込むことすらできずに地を這うアブラハムの姿がありました。彼が抱く**「超越」への畏怖**は、罪深き人間が聖なるものに触れた際の正当な反応と言えるでしょう。 一方で、サークルから軽やかに距離を置き、野の花や風と語らうフランチェスコがいます。彼は、神を定義すべき対象として外側に置くのではなく、万物に満ちる「内在」の愛として、すでにその懐に飛び込んでいます。 一見すると、この二つの神観は決して交わることのない平行線のようです。
恐れ戦くアブラハムと、微笑むフランチェスコ。しかし、この両極端な二人が同じ庭に共存し、一人の主を仰ぎ見ることができるのは、その中心に「ケノーシス(自己空虚化)」という名の橋が架かっているからに他なりません。
もし、神が超越的な威厳を保持したまま(固執したまま)であったなら、アブラハムは永遠に顔を上げることはできず、フランチェスコもこれほど親密に「兄弟」と呼ぶことはできなかったはずです。
神が自らを空っぽにし、無限から有限へ、至高から卑賤へと垂直に降りてこられたからこそ、アブラハムの「畏怖」は「救い」へと昇華され、フランチェスコの「親愛」は「真理」としての根拠を得ました。 サークルの中で沈黙するイエス。
彼は、アブラハムが恐れる「裁き主」としての顔を隠し、フランチェスコが愛する「隣人」としての姿を現しています。
「神学の徒」としてこの庭を歩いた私は、今ようやく理解しました。
私たちが背負う知の重荷も、信仰の葛藤も、このケノーシスという橋の上ではすべて、静かな賛美へと変えられていくのだということを。
夕暮れの中野の街へ踏み出す私の足取りは、来る時よりも少しだけ、フランチェスコのステップに近づいたような気がいたします。

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