※記事112 幸せとは?の続編です。
バスを運転していると、多くの障害者の方に出会う。
いつもニコニコして、笑っている人。
時々、独り言を呟いては、笑う人。
教員時代、小学校で特別支援学級を担任した。
情緒障害を持つ、当時2年生だったK君、
「マヨネーズ!」
と、時々口にしては、
ケラケラと楽しそうに笑っていた。
“マヨネーズ”の、
どこが、何が、はまるのかわからなかったが、
K君お気に入りのフレーズだった。
この頃、思う。
笑っている彼らの方が、
滅多に笑うことのない私よりも、
“幸せ”
なのかもしれない、と。
彼らは、障害を持つが故に、
“不幸”
と、とらえられがちだ。
確かに、健常者と呼ばれる人たちに比べたら、
不便だったり、
物足りなかったり、
できなかったりすることは、
たくさんあるだろう。
でも、だからと言って
“不幸”だ
とばかりは言えない気がする。
障害があるが故の “不幸” とは、
健常者の日常と比べた “不幸”
なんだろう。
本人たちが “幸せ”と思えるならば、
決して “不幸” ではない。
手塚治虫さんの漫画
『三つ目がとおる』。
主人公・三つ目の写楽君が実在していたとしたら、
彼は世間から気味悪がられ、
差別されたり、いじめられたりするだろう。
でも、
写楽君は「三つ目族」の末裔とされる。
もし、世界が「三つ目族」だらけで、
そちらの方が多数派であったならば、
立場は逆転する。
我々「二つ目族」は、
(お前はなんで、目が2つしかないんだ⁉︎)👀
と、好奇の眼差しで見られ、
差別されたり、
いじめられたりするだろう。
みんなと同じだから “幸せ”
なのか?
みんなと違うから “不幸”
なのか?
(みんなみたいに、できない自分は、何て不幸なんだ…)
とか、
(自分はまだ幸せだ。もっと不幸な人はたくさんいるじゃないか…)
とか、
正直言って、よく思ってしまう。
自分が不幸感に襲われた時。
幸せ実感が持てない時。
もっと不幸な人を思い浮かべては、
〝自分は、幸せなんだ!〟
無理にでも、そう思おうとする。
でも、
他人と比べた “幸せ” や
他人と比べた “不幸” は、
やっぱり、何か違う気がする。
しあわせは、いつもじぶんのこころがきめる。
(相田みつをさん)
より主観的な“幸せ”とは?
“絶対評価”の“幸せ”とは?
※さらに続編(いつかは不明)にて、モヤモヤしてみます。