学生時代からの麻雀仲間だった芳雄が死んだと連絡があった時は、頭の中が真っ白になり、通夜も告別式も上の空で何も考えることができませんでした。棺の中で静かに眠る芳雄の顔を見ても、どこか現実味がなく、まるで遠い出来事のように感じられたのです。
しかし、少し時間が経ち、落ち着いてくると、私は芳雄が話していたことを思い出し、背筋がゾッと冷たくなりました。
資産家の息子だった芳雄は、都心にある高層マンションで一人、優雅に暮らしていました。高層階にあるその部屋は見晴らしが良く、夜になると街の灯りが宝石のようにきらめいて見えると、彼はよく自慢していました。防音もしっかりしていたので、深夜になっても隣家に迷惑をかける心配はなく、私たち麻雀仲間が集まっては徹夜で卓を囲むこともしばしばありました。
そこで一度、奇妙なことがありました。
私を含め四人が麻雀卓を囲んでいたのですが、それぞれが自分の手の内と捨て牌に集中している時、突然、私の右隣にいる芳雄が「ちょっと待って」と小さな声で言い、キッチンの方を指差しました。キッチンは私の背後にあります。
まず、キッチンの正面に座っていた誠が「あっ」と間の抜けたような声をあげました。何事かと振り向いてみると、明かりを消して薄暗いキッチンから、スーッと白い靄のようなものが流れ出し、音もなく寝室の方へ入って行ったのです。
「何だ? あれ……」
私が震えた声を出すと、芳雄はまるで当たり前のことのように肩をすくめ、
「ここ、霊の通り道みたいなんだ」
と、こともなげに言いました。
何度も見ているので、もう慣れっこになっているというのです。冗談だろうと思いましたが、彼の表情は妙に真剣で、私たちはそれ以上何も言えなくなりました。それから後は、誰も牌に集中できず、結局その日の麻雀は途中でお開きになりました。
その出来事以来、私はあの部屋に行くのが少し怖くなりました。けれども、芳雄自身は相変わらず平然としていて、「まあ、通り過ぎるだけだから害はないよ」と笑っていました。
それから何日かして、いつも余裕ある態度の芳雄が、珍しく少し緊張した様子で電話をかけてきました。
「なあ、ちょっと怖いことがあったんだ」
声の調子が、いつもと違っていたのを今でも覚えています。
昨夜、寝室で寝ていると突然、金縛りにあった芳雄は、全く動けなくなったそうです。けれども、そんなことは何度もあったので、すぐに元に戻るだろうと高をくくっていました。すると、
「ヒタヒタヒタ……」
誰もいないはずのキッチンの方から、濡れた足で床を歩くような音が聞こえてきたのです。
くそ、また出たな……。
そう思いながら、いつものように出て行ってくれるのをひたすら待っていたそうです。
「ヒタヒタヒタ……」
足音はキッチンから寝室へと入ってきました。
このまま窓から出て行ってくれるはず……。ところが今回は違ったのです。
「ヒタヒタヒタ……」
足音は、芳雄の耳元でぴたりと止まりました。こんなことは今までになかったと、芳雄の全身は汗びっしょりになったと言います。
頼むから、早く通り過ぎてくれ……!
芳雄は固く目を閉じながら、そう念じ続けました。
どれくらい経ったのか分かりません。部屋の中はしんと静まり返り、カチカチという時計の音だけがやけに大きく聞こえてきたそうです。
もう行ってしまったか……。
そう感じたと同時に、体の自由を取り戻した芳雄は、恐る恐る、ゆっくりと目を開けました。
すると目の前に、彼の顔を覗き込んでいる真っ白な顔があったのです。
「うわっ!」
恐怖のあまり、再び目を固く閉じて体を丸めた芳雄の耳元に、こんな声が聞こえてきたと言います。
「オ・マ・エ、モ・ウ・ス・グ・シ・ヌ・ゾ」
低く、冷たい声だったそうです。
それからというもの、芳雄は少し様子がおかしくなりました。以前のような余裕ある態度は影を潜め、夜になると妙に落ち着きがなく、しきりに部屋の中を見回すようになったのです。
「最近な……誰かに見られてる気がするんだ」
ある日、酒を飲みながら彼はぽつりとそう言いました。私は冗談半分に、
「考えすぎじゃないのか」
と笑ってみせましたが、彼は笑い返すこともなく、ただ黙ってグラスの中の氷を見つめていました。
そして、その話を聞いてから、ちょうど半年ほど経ったある朝のことでした。
私は仕事の支度をしている最中に、共通の友人である誠から電話を受けました。受話器の向こうで、誠の声は震えていました。
「芳雄が……死んだ」
一瞬、何を言われているのか理解できませんでした。
聞けば、昨夜、自宅の寝室で倒れているのを管理人が発見したというのです。死因は急性の心不全。特に事件性はないとのことでした。
けれども、私はどうしても、あの時の話が頭から離れませんでした。
通夜の席で、私は思い切って誠に尋ねてみました。
「なあ……最後に芳雄に会ったのはいつだ?」
誠は少し考えてから答えました。
「三日前だよ。ちょっと顔色が悪かったけどな」
「何か言ってなかったか?」
すると誠は、少し声をひそめて言いました。
「変なことを言ってたよ。昨夜も、あの足音が来たって」
私は思わず息をのみました。
「それでな……」
誠はさらに声を落とし、
「今度は、耳元でこう言われたらしい」
と続けました。
「あと三日だ、ってな」
私は言葉を失いました。
その時、焼香の列が進み、私の番が来ました。ゆらゆらと立ち上る線香の煙を見つめながら、私はどうしても思い出してしまったのです。
あの夜、キッチンから寝室へ流れていった白い靄。
あれは、本当にただの「通り道」だったのでしょうか。
それとも。
芳雄を迎えに来るための道だったのでしょうか。