昼下がりの大学の食堂は、ざわめいていました。
「詩集、いかがですか?」
「絵を買ってください」
学生たちの中には、自分の作品を売り歩く者もいて、一層活気に溢れた空間を演出していました。笑い声やコーヒーの香りが漂い、窓から差し込む春の日差しが、食堂全体を穏やかに照らしています。
男が一人、奥のテーブルに座っています。コーヒーを片手に参考書を広げ、何やら熱心に読んでいました。
「新聞はいかがですか?」
いつの間に現れたのか、男の横にほっそりとした女性が立っていました。前髪が長く、片方の目がほとんど隠れています。小脇には数部の新聞を抱え、赤く塗られた口紅だけが妙に鮮やかでした。その口は笑っているようにも見えましたが、不思議と温かさはなく、どことなく不気味な印象を与えました。
見かけない顔に戸惑いながらも、男は思わず尋ねました。
「いくら?」
「千円です」
「高いねぇ」
女は表情を変えず、小さく言いました。
「十年後の新聞です」
冗談だと思いました。しかし男は、吸い込まれるように財布から千円札を取り出し、女に渡していました。
本当は買いたくなかったのに、どうして買ってしまったのだろう。
新聞はA4ほどの大きさで、どこにでもある普通の新聞にしか見えません。一面には、大きな企業の社長が自社ビル二十三階から飛び降り自殺したという記事が載っていました。しかし男にはまったく興味がありませんでした。
ほかには、京都では桜が見頃だとか、料理のレシピ、風邪の予防法など、ごくありふれた記事ばかりでした。
「よくできた悪ふざけだな」
そう呟き、捨てようかとも思いましたが、結局男は新聞を持ち帰りました。
翌年、男は大学を卒業しました。
就職したのは自動車会社。販売部に配属され、仕事は忙しいながらも充実していました。
月に一度開かれる企画会議では、社員一人ひとりが新しいアイデアを出さなければなりません。それが男の悩みの種でした。
ある日、翌日の会議を前に何も思いつかず、同僚たちが帰ったあとも一人で会社に残っていました。
デスクで缶コーヒーを飲みながら考え込んでいると、女性社員が置き忘れたファッション雑誌が目に入りました。
何気なくページをめくると、見開きいっぱいに広がる淡いクリーム色が目に飛び込んできます。
「この色だ……」
翌日の会議で男は、来期の新車に鮮やかなクリーム色を採用することを提案しました。
提案は採用され、新車は予想以上の人気を集めました。街にはクリーム色の車があふれ、男は一躍、将来を期待される社員になります。
これを機に昇進した男は、社長宅へ招かれる機会が増え、やがて社長令嬢と交際を始めました。結婚までは、それほど時間はかかりませんでした。
二人の間には男の子と女の子が生まれ、幸せな家庭を築きます。
やがて社長が急死し、男は新社長に就任しました。
しかし、その幸せは長く続きませんでした。
春になると、各社が競うように新型車を発表します。男の会社も社運をかけて新しいデザインを世に送り出しましたが、結果は惨敗でした。
会社には大きな負債が残ります。
役員全員が集まった会議で、男は「来期こそ、今までにない車を作ろう」と力強く呼びかけました。
それでも男には分かっていました。
もう、そのような日は来ないのだと。
二十三階の社長室へ戻ると、男は静かにコーヒーを飲みました。
ふと目の前を見ると、大きな窓があります。
その窓の向こうに広がる街並みを見つめながら、男はゆっくり立ち上がりました。
まるで何かに導かれるように、窓へ向かって歩いていきます。
今日こそが、十年前に買った新聞の日付だったことを、男が知っていたのかどうか、それは今となっては誰にも分かりません。
昼下がりの大学の食堂。
「新聞はいかがですか?」
今でも時折、赤い口紅の女が現れるといいます。
もし、その女から新聞を勧められても、決して買ってはいけないそうです。
その新聞には、まだ誰も知らない、あなたの未来が印刷されているのかもしれません。