二人は黙々と手慣れた手付きで準備に取り掛かった。僕は恐る恐る瞼の隙間から辺りを伺った。崎玉先生がアタッシュケースからパソコンを取り出し、夥しい数のコードを繋いでいる様に見えた。先生が顔を一瞬僕の方へ向けた。僕は空かさず薄目に開いた瞼を完全に閉じた。全身の汗をかき集めた様な汗を拳に伝え、タオルケットの中で握り締めたシーツを濡らした。

先生は僕の頭部にヘッドギアの様なモノを取り付け、顔面にはゴーグル、後頭部にカテーテルを差し込んだ。

「祇園さん、いつまでこんな事をするつもりですか?」

「ずっと悠尋と一緒にいたいんです」

崎玉先生は陽葵の事を祇園と呼んだ。陽葵の旧姓は木下だ。先生は何故陽葵の事を祇園と呼ぶのだろう。それに陽葵は僕の事を悠尋と呼んだ。普段と呼び方が違う。僕が今理解できている事は、ここで行われている事が僕の想像を遥かに越えているという事実だけだ。


やがて階段を登る足音が近付いて来た。部屋のドアが開く。僕は薄目で来訪者を再度確認した。声の主に間違えは無かった。崎玉先生はアタッシュケースを床の上に置き、仰向けに寝ている僕の全身を眺めた。

「メモリーの書き換えは?」

「順調に進んでいます」

淡々と受け答えする陽葵は僕の知らない冷たく尖った陽葵だった。僕は胸が張り裂けそうになった。メモリーの書き換えって、ノートに書いてあった記憶の刷り変えの事か。
 

 1時間ほど経つと外で車のエンジン音が家の前で止まった。車のドアを閉める音が鳴り、何者かが家を訪ねて来る足音が外から聞こえて来た。直ぐに陽葵が玄関に向かう気配を感じた。来訪者はチャイムも鳴らさずに玄関のドアを開けた。こんな夜中に誰だろう。

「こんばんは」

聞き覚えのある男性の声だ。誰であるかは直ぐに分かった。全身から汗が吹き出しそうになった。だが冷静さを失ってはいけないと必死になり、汗ばんだ手でシーツを握り締めた。

「バレたら消される」

手紙の中の内容が緊迫した頭の中の片隅で囁き続けた。




就寝の時間になった。陽葵はいつものように僕に薬を持って来た。陽葵の表情に何ら悪意も見当たらなかった。ましてや恋人を実験台にする様な人には全く見えない。しかし今は真実が知りたい。あのノートに書いてある内容は果たして事実なのだろうか。僕は陽葵から薬を受け取ると薬を一旦口に含んだが、薬を舌の裏側に隠し、水だけを飲み込んだ。陽葵は確認すると疑う様子も無く、コップを下げて部屋を出ていった。


僕は口の中で僅かに溶け出した薬をティッシュの上に吐き出し、包んでゴミ箱に捨てた。そして寝ているフリをして様子を伺う事にした。



震えが止まらなかった。僕が研究材料にされているだなんて。何度も疑ってみたが、間違いなくこれは僕が書いた文章だ。たがらと言ってこの状況をすんなりと受け入れる事など到底できない。受け入れてしまったら陽葵も加担しているという事になってしまう。先生の僕の力になりたいと言う言葉が異なる解釈を呼び、頭の中を駆けずり回る。その一方で自分を救える者は自分しかいないという言葉が胸に尽き刺さる。

 

僕は自分しかいないという言葉を選ぶ事にした。このノートに記された内容が事実であるならば、あのモヤモヤした感覚は気を失う前兆ではなく、失われた記憶を取り戻そうと抵抗している段階なのではないだろうか。仮に処方された薬を一度飲み忘れたとしても、記憶がまた一時的に飛ぶような症状で済むだけではないだろうか。僕は今夜薬を飲むフリをして眠ることにした。



何故そのような薬を飲まされ続けているのか、それは君に違う記憶を刷り込ませる為だ。嘘だと思うなら今日の晩、その薬と睡眠薬の服用を止め、寝たふりをして欲しい。もしもバレたら崎玉に記憶を消されるだろう。


信じられないと思うがこれが真実だ。真実を知るのが恐いのなら薬を飲み続けた方がいい。恐らく記憶のすり替えに失敗しては何らかの方法によって俺の記憶を失わせ、記憶喪失という嘘の診断を繰り返し、君を研究材料にしている。


もしも俺自身がこの実験からの回避に失敗した場合、このノートは破棄されるか、実験の経過観察、もしくは監視材料として保管されるだろう。君がこのノートをここまで読む事ができたのであれば、どうかここから抜け出して欲しい。自分を救える者は自分しかいない。

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金庫に手をかけてみると施錠はされておらず、指先に冷たい空気が絡み付いた。扉を開けてみると数十冊ものノートが入っていた。家計簿か何らかのと推測する前に異なる思惑が背筋を過ぎった。

ノートを開いてみるとそれは明らかに自分が書いた文章である。僕はその内容を読んで驚愕した。その内容とは自分に向けた内容だったのである。自分に向けた日記とかそんな生温い内容では無く、僕は自分が書き起こした、もう一つの頼りない事実によって、複雑に絡み合った神経の糸をこれから一つ一つ解いて行かねばならなかった。

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恐らくこのノートを見つけてしまった君はまだ記憶を消されていない筈だ。俺の記憶が消される前に君に真実を話さなければならない。まずは直ちにその薬の服用を止めるんだ。その薬の主成分はフィンゴリモドやアンフェタミンといった脳の海馬の働きを操作できる物質からなっている。


自分に出来る仕事と言えば部屋の掃除や、かりよしを保育園へ送り迎えなど。最近の楽しみと言えばかりよしにおやつを作ってあげる事である。お菓子作りは仕事に復帰する為の良いウォームアップになっているとも思っていた。

今日もいつもの様に部屋の掃除をしついるとクローゼットの奥に金庫が見えた。いつもだったら洋服が掛けてあり、気づかなかったのだが、その日は陽葵が急いでいたらしく、掛けてあった服を戻し忘れていたようだった。

僕は不意に先生が診察をする際、ノートを確認した後に必ず施錠付きの引き出しに仕舞う動作を思い出し、意味深なものを感じた。



「その事なら陽葵から聞いてはいますが、海に行くのも駄目だなんて」

「海でそのような症状が現れたのは初めてですね、当分は高揚の強い景色なども控えた方がよろしいかと思われます」

記憶ノートをつぶさにチェックする先生の姿を見て、僕は胸が痛くなった。






閉ざされた生活が続いた。活字やテレビなどはフラッシュバックに強く反応してしまう為と、ニュースや新聞さえも読ませて貰えなくなってしまった。病院と自宅を往復するだけの日々が続いた。ノートに思い出した事をただひたすら書き記す。そんな生活が半年程続いた。



「貴方の記憶に相違はありません、随分進みましたね、調子が良さそうで何よりです」

「それが、そうでもないんです。海に行って波の音を聞いていたら急に目眩と幻聴に襲われました」

「海に行かれたんですか?」

先生の表情から汲み取るものは何も無かったが、突き刺さる様な語尾に難色を残した。

「ええ、海を眺めていたら気が遠くなって気が付いたら机に向かっていたんです」

「精神活動が活発になっているようですね、回顧することに神経が集中してしまって、それ以外の動作と関連した記憶が一時的に失われていると思われます」

「これからそういう一時的な記憶喪失が繰り返されるのでしょうか」

「記憶に損傷が起きていますので、それを補おうと他の脳の分野が活動過多になり、その分何らかの記憶が欠落してしまったり、歪められてしまうという可能性が考えられます。刺激の強い景色、映像、音、情報などは控えるようお薦めします。」