曲目はピアノを中心としたインストゥルメンタルが大半を占めていて、数曲を挟んで歌モノが組み込まれていた。普段ポップソングしか聴かない僕にとっては、意味深で難解をきたしてはいたが、素人から見てもピアノの演奏技術は圧倒的なモノだった。

 演奏が終わると一番に僕の所へ来てくれた。数人のファンの視線を感じてやや申し訳ない気持ちになった。杏は静かに会釈した。

「惹き込まれました、本当に上手ですね、プロ目指せばいいのに」

杏は静かに手を横に振った。

「いえいえ、私の腕前じゃ無理ですよ」

僕はその透き通る様な肌と、狭い肩幅を見て抱き締めたいと思った。杏と僕との距離は次第に深まりだした。杏と一緒にいると陽葵を忘れさせてくれるような気がした。何事にも控えめで、自分の感情、パーソナリティ、仕事に至るまで必ず一歩後ろを歩いていた。しかし控えめな中にも凛とした一つの強い輝きを持ち合わせていた。杏と一緒にいると陽葵といる時の様に馬鹿騒ぎする程の楽しさこそ無いが、一つの物事に対して思慮深く、奥行きのある彼女の感性に僕は次第に惹かれていった。しかし僕は陽葵の事が今でも好きで陽葵は僕の事が好きではない。ただそれだけの事だった。