知念草さんとはカジカでクルーとして一緒に働いていた時も、風邪で休む時ぐらいしか電話をかけた事が無かった。受話器の声からは少し戸惑いを感じた。
「どうしたの?何か用?」
「知念草さん、ちょっと聞きたい事があるんです」
「何よ改まって、そう言えばあの時聞けなかったんだけどさ、何あんた達結婚したの?」
「はい、一応そういう事になってはいます」
「何よその他人事みたいな言い方、良かったわね、おめでとう」
「ありがとうございます」
「ごめん脱線しちゃったわね、聞きたい事って何?」
僕は乾いた口の中の空気を一旦呑み込んだ。
「祇園て人知っていますか?」
呑み込んだ筈の空気が知念草さんに伝染した様に嫌な空気が一瞬を支配した。
「あんた頭大丈夫?あんたの隣にいた人が祇園杏じゃない」
「祇園、杏。」
「ちょっとどういう冗談?本当に大丈夫?」
興奮状態の中で、自分の中の不確かな情報はようやく確信に変える事ができた。
「ええ、大丈夫ですよ。改めて冗談を踏まえた上で、報告したかったんです」
確信を得た上で悲しい気持ちに襲われた。やはり僕が想っている陽葵は陽葵では無いのだ。それに祇園杏という人物の記憶がない。一体どんな人物なんだろう。
「あんたの冗談て本当に分かりづらい。話はそれだけ?」
「それだけです」
「何か変な話、ねぇいつ遊びに来るのよ」
「また連絡しますよ」
「あんたに聞いてもいつになるか分からないわ、杏に聞いてみた方が早いわね、それじゃあまたねばーい」
僕が想っている木下陽葵が祇園杏であるという事実をようやく自分の中に落とし込む事ができた。先の見えないトンネルの明かりがやっと見えてきた気がした。だが抜け出すまでの距離は相当長く感じられた。背筋に吹き荒れる風が距離の長さを示していた。