「昆布」の大阪。 | 無縁(むえん)の縁(ふち)から

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老いた母と暮らす夫なし・子なしのフリーランスライター。「真っ当なアウトサイダー」は年を重ねる毎に生きづらくなるばかり。自身の避難所(アジール)になるよう、日々のつぶやきを掲載します。とはいえ、基本「サザエさん」なので面白おかしく綴ります。たまに毒舌あり。

先日、大阪の食文化についてちらっと触れたが、じゃあ大阪の食文化って何だ、という話になる。たこ焼き、お好み焼き…、と口をついて出てくるが、そういう「粉モン」にばかりスポットが当たるのは違うと思う。

歴史的に見て、大阪の食を支えてきたのは「昆布」だ。芳醇でまったり、しかも上品な昆布出汁こそが大阪の味、と言いたい。

 

江戸時代、北海道で獲れた昆布を北前船に乗せて日本海を南下、山口の関門海峡をぐるっと回って瀬戸内海に入り、大坂の港で降ろされた昆布が出汁に使われる以外におぼろやとろろ昆布、佃煮などに加工されて人々の口に入った。そういう背景もあってか、今も大阪には昆布を扱う店が多い。

「えびすめ」で有名な小倉屋山本、淀屋橋の神宗、松前屋、をぐら屋、おきな昆布に舞昆、まつのはこんぶの花錦戸、空堀通りのこんぶ土居などの老舗の他、有名店から暖簾分けをしたお店も数えれば、大阪の大きな商店街には1~2軒昆布屋がある。

そのせいなのか、大阪では進物に昆布の佃煮をよく使う。一方、東京で暮らしていたときは昆布の佃煮をもらうようなことはなかったと記憶している。

 

神宗は、母がよく進物で使っていた。30年以上前の話だ。クロワッサンなどの雑誌で取り上げられる前で、確か心斎橋のそごうか大丸にしか入っておらず、それでも「今日も並んで神宗の昆布を買った」とよく話していた。

少し前から味が落ちてあれ?っと思っていたが、2022年9月、保存していた製品を新しい原材料と混ぜて調理、出荷していたことがわかり保健所から指導を受けた。

悲しいことだが、老舗の味を守ることができるだけの質がいい昆布が獲れなくなっていることも背景にあるのではないかと思う。

 

さて、大阪の昆布を語る際、どうにも外すことができないのが、山崎豊子のデビュー作「暖簾」だ。私が子どもの頃には既に「国民的大作家」であった山崎豊子の作品を、なぜかすっ飛ばしていて一度も読んだことがなかったのだが、最近読む機会があり、うなった。

「暖簾」は山崎豊子の実家である昆布屋・小倉屋山本を舞台とし、明治の終わりから1914年(大正3)から始まった第一次世界大戦、昭和9年の室戸台風、そして太平洋戦争の空襲で船場が灰塵に帰した後の戦後の船場、そして昆布屋の変遷が描かれている。

山崎豊子は綿密な取材力を信条とし、そのストーリーテリングのダイナミックさと豊かすぎる表現力で一気に読んでしまった。昆布の質の見極め方や昆布買い付けの入札など、昆布商人でしか知り得ないことが丁寧に描かれている。

 

2022年、空堀通り商店街にある「こんぶの土居」が「大阪昆布ミュージアム」を作った。

まだお伺いできていないが、インターネットの記事によるとミュージアムの3階は昆布の熟成庫になっているそうだ。夏、北海道で収穫された昆布は秋口に大阪に着き、冬・春を経て梅雨を越えるとさらに美味しさが増すという。

これと全く同じことが「暖簾」の中に書かれていた。昆布を湿気から守りながら、筵(むしろ)でくるんで保管しておくと「梅雨守りの出来た昆布」といって急に味がよくなると。

昆布のことを知りたければ「暖簾」、必読書である。

 

ところで、「暖簾」の最後は主人公である孝平が、関東と関西の財界人の対談をテレビで見ている場面だ。年長の関西財界人に礼儀を尽くしながら、年若の関東財界人が圧倒的に自信ありげな様子を見て、憤りと反発を感じる。その理由を、戦争を境に優位に立った東京の経済力とし、主人公が、明治・大正の資本主義の揺籃期を支えた大阪を元通りにしてみせる、と決意するシーンで終わる。

 

大阪の衰退は、「暖簾」が刊行した今から71年前、昭和32年の段階で既に顕著になっていたということだ。またその理由まで端的に書かれている。嗚呼。

 

蛇足。

「暖簾」は、昆布のことを知りたい方以外にも大阪の歴史を知りたい方、そして大阪市民必読の書である。