日本一の最下位監督・土橋正幸氏、逝く | VBCテレビブログ放送

日本一の最下位監督・土橋正幸氏、逝く

'84年シーズン途中から"監督の代理の代理"として監督に就任し、'86年迄指揮を執った土橋正幸氏(77)が筋萎縮性側索硬化症で24日、都内の病院から旅立たれました・・・。

モトをたどれば東映フライヤーズ(現・日本ハム)に'55~'67年まで投手として活躍。その後は古巣・東映→日拓の投手コーチや監督をしました。

ヤクルトへは'84年に投手コーチとして入閣。'83年ドラフト1位の荒木大輔を育成して欲しい・・・との事で入閣したという。

しかし入団間もなく、この年就任5シーズン目だった武上四郎監督が開幕早々1ヶ月も持たずに成績不振を理由に辞任。代理監督に就任した中西太も体調不良を理由に1ヶ月持たずに休養、代理の代理として土橋正幸が監督へ(泣)ってヒドいチームだな。

その後正式に監督に就任した土橋監督は、投手力を中心としたチーム作りに着手。特に弱小時代のエースだった尾花高夫をエースとして育て上げました。

'82~'83年は2年連続最下位に沈んだヤクルトでしたが、この年は辛うじて5位に浮上。しかし'85年からは再び2年連続の最下位に低迷しました。

'85年は阪神フィーバーで明け暮れたシーズンで、皮肉にも阪神のリーグ優勝決定試合は神宮でのヤクルト戦。神宮も球場の大半が阪神ファンでした(泣)当時の阪神の守護神・中西清起の前にヤクルト最後の打者・角富士夫が投ゴロに倒れ、阪神の吉田義男監督が胴上げされるVTRは今でもよく見られますね(泣)

阪神フィーバーの一方、ヤクルトは5位にすら11.5ゲーム差も離されてのドン底最下位という離れ小島状態でした(泣)

'86年はシーズン終盤、巨人優勝の夢を砕くブロハードの逆転2ランで巨人に勝った試合の直後、心無い巨人ファンから土橋監督の自宅に嫌がらせの電話が殺到し土橋監督は辞任を決意したという。

シーズン報告も兼ねて当時の松園尚巳オーナーへ挨拶に出向いた土橋監督は、「助っ人を獲得するならもっと大物じゃないと」と訴えると「今、その方向で動いているんだけどね」と返され、それがボブ・ホーナーだったという。これには後年悔しがったとか。

確かに土橋監督時代の助っ人と言うとロクでもないポンコツばっかりだったからね(泣)クリス・スミスとかアンディ・ビーンとかマーク・ブロハードとか・・・。とても最下位脱出のカンフル剤には程遠いクソッぷりだったからな(泣)大洋(現・DeNA)からの払下げのレオン・リーぐらいだったな、まともな活躍をしていたのは。

ヤクルトの監督としては最下位のイメージしかありませんが(泣)それでも後の主力選手の数々を育成したのも忘れてはなりませんね。広沢克己('85年ドラフト1位)は、見逃しの三振をすると物凄く怒られたとか。三振するならおもいッきり三振してこい!と・・・。

解説者としても名キャラクターを発揮されていましたね。体格も良かったしまさかそんな難病に苛まれていたとは・・・。


大霊界で是非優勝を!





$VBCテレビブログ放送-最下位監督

故・土橋正幸監督。ヤクルトでは最下位が続きましたが(泣)怪我人が続出したのと助っ人がポンコツばっかりだったのと殆どまともなトレードをしなかったのが災いしました(泣)