被爆鐘楼 広島市比治山 多聞院 | ヒロシマ平和公園の四季 第2部

ヒロシマ平和公園の四季 第2部

原爆投下により広島の街は「ヒロシマ」に変容しました。その悲劇から70年あまり平和な町に復興しました。しかし、平和公園には「ヒロシマのこころ」が息ずいています。四季の移ろいとともに語り継ぎます。

多聞院は戦災時の県庁の6番目の緊急避難先に指定されており、文徳殿には広島市の戸籍選挙課が置かれ市役所から戸籍簿が移転されていた。1945年8月6日原爆被災に際しては、爆心地から1.7kmの距離にあって本堂・庫裡・鐘楼などは大破しながらも焼け残り、同日17時頃には県防空本部が本堂に置かれ、20時以降には出張先から戻った高野源進知事の下で内務省への報告、救護班の出動命令が出されるなど被爆直後の臨時の県庁として機能した。翌7日朝に県庁が東警察署に移転したのちの多聞院は臨時救護所に充てられ、市中心部から東へ鶴見橋を渡って避難してきた多数の被爆者の治療が行われた。文徳殿に保存されていた戸籍原簿は焼失を免れたが、ガラスの破片で負傷した職員1名が死亡した。