真剣勝負 伊藤大輔脚本 初代中村錦之助主演 内田吐夢監督作品 | 俺の命はウルトラ・アイ

真剣勝負 伊藤大輔脚本 初代中村錦之助主演 内田吐夢監督作品

『真剣勝負』

映画 トーキー 75分 カラー

昭和四十六年(1971年)二月二十日封切

製作国 日本

製作言語 日本語

製作 東宝

 

製作 椎野健二

    大木舜二

 

原作 吉川英治 『宮本武蔵』

 

 

脚本 伊藤大輔

 

 

撮影 黒田徳三

音楽 小杉太一郎

美術 中古智

録音 藤好昌生

整音 東宝ダビング

照明 金子光男

編集 永見正久

剣道指導 杉野嘉男

殺陣 尾形伸之介

現像 東洋現像所

製作担当者 橋本利明

 

 

出演

 

中村錦之助(宮本武蔵)

 

沖山秀子(宍戸槇)

 

田中浩(岩テコ)

岩本弘次(於六)

当銀長太郎(鉄砲又)

木村博人(飛び十)

伊藤信明(槍り市)

上西弘次(野洲川)

浅若芳太郎(法界院)

荒木保夫(藤兵衛)

二瓶正也(若者)

沖山駿一(若者)

 

吉山利和(佐々木小次郎)

新乃蔵人(吉岡伝七郎)

木村正道(吉岡清十郎)

熊谷卓三(吉岡源右衛門)

磯貝武毅(吉岡源次郎)

松山秀明(宍戸太郎治)

 

 

三國連太郎(宍戸梅軒)

 

 

監督 内田吐夢

 

 シナリオでは磯貝武毅の役名は吉岡

源七郎とあるが、吉岡源次郎の誤記と

思われる。

 

 吉川英治の原作では壬生源次郎である。

 

伊藤大輔=伊藤葭=呉路也

 

尾形伸之介=中野文雄

        =尾形伸之助

 

小川錦一=初代中村錦之助=小川矜一郎

      →初代萬屋錦之介

 

佐藤政雄=三國連太郎

      =三国連太郎

 

内田常次郎=内田吐夢

       =内田富

       =平田参作

       =閉田富

平成十二年(2000年)四月一日

新世界公楽にて鑑賞

 感想文の中で内田家家庭事情について

言及しますが、『私説 内田吐夢伝』『「命一

コマ」映画監督 内田吐夢の全貌』を参考

にしています。

 

 

 作品研究において作者の生き方の探求

は必須の課題です。ご了承下さい。

 

 結末について言及します。未見の方は

ご注意下さい。

 ☆

 序篇

 宮本武蔵のシルエットが映る。

 

   「ワレ、生涯六十余度ノ試合二於イテ、

    一度ノ不覚ヲ取リシコトナシ」

 

 武蔵の言葉が紹介される。

 

  『兵法三十五箇条』

  『五輪之書』

  『獨行道十九條』

 

 武蔵が記した書の巻子本の題簽が映る。

 

  解説(ナレーター)は「武蔵自らの書き遺

した、いずれの著作物からも、二刀流による

勝負の記録をただの一つも見出すことの出

来ないのは、何の所以によるものであろう?」

と問いかける。

 

 武蔵が強敵と戦い倒した記録が映像で

示される。

 

 雑木林の中が映る。関ケ原の合戦において

一雑兵として浮田(宇喜多)勢に参戦した十七

歳の武蔵(たけぞう)は破れて伊吹山麓で落ち

武者狩りの頭領辻風典馬と戦い、棒で撲殺し

た。

 

 蓮台寺野

 剣士となり、名を宮本武蔵(みやもと・むさし)

と改めた武蔵(たけぞう)は、吉岡清十郎と戦

い、木剣で負傷させた。

 

 三十三間堂

 武蔵は清十郎の弟吉岡伝七郎と果し合い、

斬殺する。

 

 一乗寺下がり松

 宮本武蔵は吉岡一門と戦い、名目人の吉岡

源次郎少年を刺殺する。

 

 小倉船島

 宮本武蔵は巌流佐々木小次郎と決闘を為し、

これを撲殺する。

 

 本篇

 

 伊勢ノ国鈴鹿山脈の奥に宮本武蔵が現れる。

 

 彼は八重垣流鎖鎌の使い手宍戸梅軒(ししど

・ばいけん)に強い関心を抱いている。梅軒の

家の前で彼の妻槇が使う鎖鎌の凄まじさに武蔵

は「出来る」と感嘆する。

 

 「うちの人にぶつかって、血反吐を吐くか?」と

武芸者武蔵にお槇は問う。

 梅軒とお槇の夫婦には太郎治という赤ん坊の

息子がいる。お槇は太郎治をあやし、子守唄を

聞かせる。

 

 武蔵は帰宅した梅軒に挨拶し、鎖鎌の妙技

を拝見したいと望む。「見たらお前は血反吐を

吐くぞ」と梅軒は注意する。

 

 武蔵は梅軒に名を問われ、宮本武蔵と名乗

た。

 吉岡一門を圧倒した剣士と知り、梅軒は驚く。

 

 武蔵(たけぞう)と名乗っていた時期が宮本

武蔵にあると聞き、梅軒はある事に閃く。

 

 深夜武蔵は一人で梅軒家周囲の殺気に注意

する。

 

 裏口で梅軒は配下の岩テコ・鉄砲又・藤兵衛

・法界院・於六・槍市・飛び十・野洲川の八人衆

と謀り、武蔵暗殺の機会を窺う。

 

 武蔵が十七歳の時期に戦って撲殺した辻風

典馬はお槇の兄だった。お槇は仇敵が見つか

ったと知り、夫梅軒の仇討ちを期待する。

 梅軒も妻の敵討ちの心をよく熟知し、仇武蔵

のほうから現れた機会を逃すまいと戦の準備

を為す。

 

 梅軒は武蔵に対戦を望み、妻槇の兄辻風典馬

の仇討ち戦であることを伝える。

 武蔵は典馬撲殺に「覚えがある」と答える。

 

 お槇と八人衆も闘志を燃やす。

 

 空は深夜から未明の色になって行く。

 

 草原で武蔵は梅軒を頭領とする軍と対峙する。

お槇は赤子太郎治に「父が伯父御の仇を取って

くれる」と伝える。

 

 草原の決戦で武蔵は八人衆を倒す。

 

   「梅軒、子供の命は惜しくはないか」

 

 武蔵は突然問い、お槇の隙をつき、太郎治を

奪って走る。

 

 梅軒・槇夫妻は最愛の我が子を人質に取られ

動揺する。武蔵は人質戦法を梅軒に糾弾され、

「兵法とは勝つ為のものだ」と開き直る。

 

 お槇は「どうしよう」と迷う。太郎治は空腹を訴

える。

 

 梅軒は鎖鎌を振り、お槇は夫を制止する。

 

  ☆ここから物語の核心に言及します。未見

の方はご注意下さい☆

 

 武蔵は太郎治を抱いて走る。

 

 お槇の胸に母乳が張ってきて、草にかける。

 

 武蔵は竹筒を投げ、「乳を入れて投げ返し

なされ」と提案する。槇は竹筒を取ろうとする

が、梅軒は踏みつぶす。

 

 お槇は「太郎治を返して」と武蔵に訴える。

 

 「兄の敵討ちを忘れたのか」と梅軒は問う。

 

    「死んだ兄者より子供の命」

 

 お槇は母性愛を叫ぶ。

 

   「それが女の本心か」

 

 梅軒は驚愕する。

 

  「坊主許せ」と梅軒は語り、太郎治を犠牲にし

てでも、強敵武蔵との決戦を望む。

 

 お槇は夫の決断に怒る。

 

 武蔵は母性愛に生きるお槇に謝罪し、太郎治を

返す。

 

 梅軒は息子太郎治をお槇に託す。

 

 草原において、梅軒は武蔵に息子を助けてくれた

ことに感謝しつつ、一対一の勝負を希望する。

 

 武蔵は持っていた鎖鎌を梅軒に返す。

 

 野火燃える草原において宮本武蔵と宍戸梅軒

は対峙する。

 

 太郎治のあどけない顔が映る。

 

 「殺人剣即活人剣」「剣は畢竟暴力」の字幕が

映る。

 

 ☆内田吐夢 七十一歳・七十二歳の芸根☆

 

 内田常次郎(うちだ・つねじろう)は明治三十一

年(1898年)四月二十六日に岡山県岡山市に父

内田徳太郎・母幸(こう)の息子として誕生した。

 一二三堂(ひふみどう)という菓子製造業を為

していた内田家は菓子作りの名人として名を博し

ていた。

 父徳太郎の世襲名は源蔵で吐夢が生まれた

頃一二三堂の店主で芝居好きであったという。

 母幸は穏やかで優しい人と伝えられている。

 

 

 伊藤大輔は明治三十一年(1898年)十月十三

日愛媛県宇和島元結掛において、父朔七郎・母

寿栄の子として生まれた。

 

 後に日本映画を荷い牽引した吐夢と大輔は同

じ年に誕生した。

 

 横浜の少年時代は不良として名を博した常次郎

は、トムの綽名で呼ばれた。

 

 ピアノ製作所勤務を経て大正活映に入り、役者の

道を歩み、芸名は綽名から内田吐夢(うちだ・とむ)

を名乗った。若き日の役者時代の吐夢の写真を見

ると美男子である。

 

 

 大正十三年(1922年)十月二十九日公開、牧野

教育映画製作所製作の『噫小西巡査』は衣笠貞之

助と吐夢の共同監督で演出されたという。

 自分は未見である。東京国立近代美術館・マツ

ダ映画社共にフィルムを所蔵していない。衣笠貞

之助・内田吐夢両監督の第一回監督作品は現在

見聞することが無理である。

 フィルムが何処かに現存していて発見されること

を祈っている。

 

 吐夢は監督デビューの後各地を放浪し、旅役者

としても暮らし、肉体労働も為した。この生活体験

が、後年の映画監督活動に影響を与えることとな

る。

 

 

 大正十三年(1924年)朝日キネマでは喜劇の名

作『きげき 虚栄は地獄』で夫婦愛を語った。吐夢

自身バスの乗客として出演している。

 

 昭和二年(1927年)碧川道夫の妹芳子と結婚す

る。

 

 大正十四年(1925年)社会教育映画研究所製

作『少年美談 清き心』において少年の無垢の心

を尋ね、日活大将軍に入り青春映画の名作『漕

艇王』を発表し、昭和四年(1929年)には日活太

秦製作で『喜劇 汗』を撮り労働の尊さを語った。

 

 

 『きげき 虚栄は地獄』『少年美談 清き心』『漕

艇王』『喜劇 汗』の四本はフィルムが現存してい

る。

 

 昭和三年(1928年)五月二十八日長男一作が

誕生した。

 

 昭和七年(1932年)九月日活の経営合理化に

よる人員整理に反対し、監督の村田實・伊藤大

輔・田坂具隆・製作部長の芦田勝・役者の小杉

勇・島耕二と共に日活を退社する。七人組脱退

事件である。

 

 昭和九年(1934年)二月三日吐夢・芳子夫妻に

次男有作が誕生した。

 

 吐夢は新映画社・日活多摩川製作所・満州映画

協会を歩んだ。

 昭和二十年(1945年)八月満州映画協会参与の

吐夢は十五日の終戦を満州で確かめた。二十二日

満州映画協会理事長甘粕正彦が服毒自殺を為した。

吐夢は正彦に青酸カリを吐き出せようとしたが、間

に合わなかった。

 

 戦後中国に残った吐夢は反省の日々を送り、昭

和二十九年(1954年)に復員し東映に入った。

 

 東映京都において吐夢は数々の時代劇映画の

大傑作を演出した。

 骨太のドラマを重厚な演出で探求した。

 

   

 吉川英治(明治二十五年(1892年)八月十一日

ー昭和三十七年(1962年)九月七日)は、昭和十年

(1935年)八月二十三日から昭和十四年(1939年)

七月十一日の約四年の月日をかけて、新聞小説

『宮本武蔵』を書いた。

 

 関ヶ原の合戦から巌流島の決斗までの新免武

蔵(後の宮本武蔵)の道を語り描いている。

 

 

  少年時代の伊藤大輔は文章を熱心に書き、雑

誌に投稿していた。伊藤葭(いとう・よし)がペンネ

ームであった。

 大正三年(1914年)九月十日発行『保恵会雑誌』

に本名伊藤大輔の名で投稿した『夏休みの一と日』

が掲載された。

 昭和五十一年(1976年)四月十日キネマ旬報社

発行『時代劇映画の詩と真実』に全文が再掲載さ

れた。

 

 この文章が後に演劇・映画・随筆・テレビ・

ラジオに広がる伊藤大輔作品の最初の活動と位

置付けられよう。

  

 大正六年(1917年)大輔は松山中学を卒業

した。この年父朔七郎が死去し、大輔は大正七

年(1918年)呉の海軍工廠に勤務し、マクシム・

ゴーリキーの戯曲『どん底』を上演し、俳優と

してワシカ・ペペル役を勤めた。これが大輔最

初の芸能活動と思われる。

 

 演劇に情熱を燃やし、自作の戯曲を尊敬する

小山内馨に提出し添削指導を乞うた。

 

 

  大正九年(1920年)海軍工廠の労働組合組織

の問題で退職となり、小山内薫の勧めで上京し松竹

キネマ俳優学校に学ぶ。師匠小山内薫の推挙で

活動大写真の脚本執筆の仕事を紹介される。

 

 

 大正十一年(1920年)十一月二十四日、松

竹キネマ蒲田製作、伊藤大輔原作・脚本、小

谷ヘンリー監督の活動大写真『新生』が公開

される。これが大輔の第一回映画脚本である。

 

 大正十三年(1924年)五月一日帝国キネマ

芦屋製作・伊藤大輔第一回監督作品『酒中日

記』が公開された。

 

 大正十五年(1926年)十一月二十日(十五日

説あり)、日活大将軍製作、伊藤大輔脚本・監

督・大河内傳次郎主演の映画『幕末剣史 長

恨』が公開される。

 これ以降大輔は数々の時代劇映画の脚本・

監督を担当し、「敗北の美学」の主題のもと、圧

迫してくる壁と対決し、踏みつぶされつつも抵

抗する生命を描いた。

 「時代劇の父」と呼ばれる大輔は、吐夢にと

って生涯のライバルであった。

 

 

 小川錦一(おがわ・きんいち)は昭和七年(19

32年)十一月二十日東京府に三代目中村時蔵・小

川ひな夫妻の四男として誕生した。

 

 

 昭和十一年(1936年)十一月初代中村錦之助

(しょだい・なかむら・きんのすけ)の芸名で初

舞台を踏む。

 昭和二十八年(1953年)十一月十五日に『鬼

一法眼三略巻』における虎蔵実は牛若丸を勤め

た後、映画俳優に転身する。

 時代劇映画を中心に出演した錦之助は大ス

タアとなった。

 

  

 昭和三十五年(1960年)吐夢は、吉川英治著

『宮本武蔵』の映画化企画を一年一作の全五部

作で映像化することを考案した。

 

   「うむ・・・・・・

   『宮本武蔵』か・・・・・錦之助は

    いい役者だ。今の彼なら『武蔵』ができる

    かもしれない。」

    (鈴木尚之著 『私説 内田吐夢伝』)

 

 吐夢は主人公宮本武蔵役に初代中村錦之助を

想定する。

 

 『宮本武蔵』全五部作の映画を昭和三十六年

(1961年)から四十年(1965年)の五年の歳月を

かけて映像化するという吐夢の大計画を東映は

受けた。

 

 武蔵の成長と共に中村錦之助も成長する。こ

の主題を吐夢は打ち出し、六十代の吐夢自身も

成長したいと意欲を示した。

 

 吉川英治は映画『宮本武蔵』五部作の企画

を喜び、吐夢や鈴木尚之の相談に乗った。

 

 第一作の撮影現場に見学に来た英治が武蔵

役の初代中村錦之助と共に撮った写真が現存

している。

 昭和三十六年(1961年)五月二十七日『宮本

武蔵』が公開された。全五部作の第一作である。

 

 昭和三十七年(1962年)九月七日、吉川英治

は七十歳で死去した。

 

 同年十一月十七日に第二作『宮本武蔵 般若

坂の決斗』が公開された。

 

 この年吐夢と愛人女性に息子琢磨が誕生した。

 

 吐夢は『宮本武蔵』五部作企画に情熱的に取り

組み、昭和三十八年(1963年)八月十四日第三

作『宮本武蔵 二刀流開眼』、昭和三十九年(19

64年)一月一日第四作『宮本武蔵 一乗寺の決

斗』が公開された。

 

 

 昭和四十年(1965年)一月十五日、東映東京製作、

水上勉原作、吐夢監督の映画『飢餓海峡』が公開さ

れる。犬飼多吉の罪への苦悶と杉戸八重の優しさ

を尋ねた。

 

 吐夢は妥協なき演出で当初192分1秒の完成版を

生み出した。ところが東映首脳はフィルムをカットし

167分版に縮小した。

 

  

 「内田吐夢の芸コンが許さぬ」

 

 

 192分版1秒カット問題で吐夢は東映スタッフに語っ

た。

 

 吐夢は怒り、「短縮版を封切るならば 監督 内田

吐夢 の文字を外せ」と東映に抗議した。

 

 大川博社長と吐夢の話し合いにより、東映直営

館で183分の修復版、契約館で167分版の上映を為

すことが決まった。

 

 

 『宮本武蔵』第五作にして完結篇『宮本武蔵 巌

流島の決斗』の企画は東映から中止を決められた

が、岡田茂が大川博を説得し、予算の厳しさを甘受

することで映画化企画は再開した。

 

 

 昭和四十年(1965年)九月四日『宮本武蔵 巌流

島の決斗』が公開された。

 

 『飢餓海峡』のカット問題が原因となり、吐夢は昭

和四十年(1965年)年末に東映を退社した。

 

 

 昭和四十一年(1966年)明治九十九年のこの年、

吐夢は『乃木大将』の企画を発表した。脚本八住

利雄、製作東京映画のチームで撮る事が予定さ

れていた。

 

 しかし、資金問題で実現しなかった。

 

 『バロン・西』。

 硫黄島の戦闘で戦死したと言われるバロン・西

こと西竹一を尋ねる。

 

 『満映崩るるの日』。

 甘粕正彦の最期と満蒙の日本人・中国人を描く。

 

 

 

 『ボーイズ・ビー・アンビシャス』。

  札幌農学校生とクラーク博士を尋ねる。

 

 『天皇の世紀』。

 大佛次郎の大作の映像化。

 

 

 『写楽』。

 長年の夢の企画であった。

 

 こうした諸企画の製作は成り立たなかった。吐

夢の無念は察するに余りある。

 

 昭和四十年(1965年)京都の自宅を引き払

った吐夢は小田原のアパートに暮らし自炊せ

ず、弁当と外食で食事を済ませ銭湯に通って

いたという。

 

 父吐夢が 「金が無くなった。内田吐夢はウチ

ダトムじゃない ウチデノムだ」と色紙に記して

いたことを有作は確かめている。

 

 

 

 伊藤大輔脚本・監督、初代中村錦之助出演

(織田信長役)の映画『徳川家康』は昭和四十

年(1965年)一月三日に公開された。

 この作品はシリーズ化が企画されていたが、

東映は第二篇の製作中止を決定した。

 

 大輔は東映を去り、錦之助も東映を出る。

 

 錦之助は本名を小川矜一郎(おがわ・きんい

ちろう)と名乗った時期があるが、映画『祇園祭』

『幕末』はこの名前で企画した。

 

 吐夢は「僕はリバイバルはやりませんよ」(『私説

内田吐夢伝』414頁 2009年3月16日発行 岩波現

代文庫)と語っていたが、監督作品『人生劇場』(昭

和十一年二月十三日封切)と『宮本武蔵』全五部作

の関連企画の『人生劇場 飛車角と吉良常』『真剣

勝負』の二本が成り立った企画となった。

 

 自分は昭和十一年版『人生劇場』を銀幕未鑑賞

である。

 

 昭和四十三年(1968年)十月二十五日に東映東京

製作『人生劇場 飛車角と吉良常』は公開された。

 

 昭和四十四年(1969年)『あゝ野麦峠』の企画が、

監督内田吐夢、主演吉永小百合(政井みね役)で

出されたが、製作費問題で実現しなかった。

 

 

 

 ここまで吐夢の歩みを管見したのは、昭和四十五

年(1970年)に『真剣勝負』映像化に挑む巨匠七十・

七十一歳の課題を尋ねたかったからである。

 

 『宮本武蔵』全五部作で尋ねられなかった、武蔵

と宍戸梅軒の物語を映像化する。これが『真剣勝

負』の内実である。

 

 脚本は伊藤大輔が書いた。昭和十八年(1943年)

五月十三日封切、製作大映第一の映画『二刀流開

眼』の関連作品として『真剣勝負』は企画されたとも

聞いている。『二刀流開眼』は宮本武蔵に片岡千恵

蔵、宍戸梅軒に月形龍之介で、演出を伊藤大輔が

担当した。映像が残っており、DVDも出ているようだ

が、自分は未見で銀幕での出会いを待っている。

 

 三十七歳の初代中村錦之助が『宮本武蔵』五

部作に続いて主役宮本武蔵を勤める。

 

 錦兄以外の配役は代わった。

 

 『宮本武蔵』『宮本武蔵 般若坂の決斗』『宮本

武蔵 巌流島の決斗』で宗彭沢庵を勤めた三國

連太郎が宍戸梅軒役に演じることとなった。

 

 三國連太郎(みくに・れんたろう)は大正十二年

(1923年)一月二十日群馬県に誕生した。本名は

佐藤政雄(さとう・まさお)である。

 

 優しさと厳しさを穏やかに表し重厚な存在感を

示した三国連太郎は、復讐と苦悶の男性梅軒を

探求する。

 

 昭和四十五年(1970年)の撮影時三國連太郎は

四十七歳であった。

三國連太郎

 梅軒の妻お槇を沖山秀子が演じる。沖山秀子

(おきやま・ひでこ)は昭和二十年(1945年)十二

月二十一日鹿児島県に生まれた。

 

 昭和四十三年(1968年)十一月二十二日公開、

製作今村プロダクション、監督今村昌平の映画

『神々の深き欲望』において、三国連太郎と沖山

秀子は太根吉・太トリ子の親子の役柄であった。

 二年後の『真剣勝負』撮影では夫婦の梅軒・お

槇役で共演する。

 沖山秀子は本作撮影時の昭和四十五年(1970

年)は二十四歳の若さである。

 

 『宮本武蔵 巌流島の決斗』において秩父の熊

五郎を演じた尾形伸之介が、本作『真剣勝負』で

は辻風典馬を演じる。

 

 吉川英治原作・初代中村錦之助主演(宮本武蔵

役)・内田吐夢監督『宮本武蔵』第六本目の活動大

写真ではあるものの、第六部ではない。この事も『真

剣勝負』の大切な個性である。

 

 本作を撮るに当たって、『宮本武蔵』全五部作で

撮れなかった題材ではあっても、補填する構成を

取らず、新たに武蔵の生涯を概観し、その戦闘史

の一つとして尋ねる。

 伊藤大輔脚本は「序篇」において、宮本武蔵

における著作『兵法三十五箇条』『五輪之書』『獨

行道十九條』を尋ね、二刀流による勝負の記録

は何故ないのかと問う。

 

 内田吐夢は序篇においてドキュメンタリー演出

を重厚に見せる。

 

 関ケ原の合戦・伊吹山麓における辻風典馬、蓮

台寺野の吉岡清十郎、三十三間堂における吉岡

伝七郎、一乗寺下がり松における吉岡源七郎、

小倉船島における佐々木小次郎と武蔵における

血斗の歩みを尋ねる。武蔵は決戦で典馬・伝七郎・

源七郎・小次郎を殺害し、清十郎を負傷させた。

内田吐夢先生

 内田吐夢は『宮本武蔵』を初代中村錦之助主演

で映画化するが、東映版の五部作を補填する構成

は取らず、新たに武蔵の生涯を尋ね、戦の一つと

して宍戸梅軒との葛藤を尋ねようとする。

 

 関ケ原から小倉船島巌流島までという梅軒との戦

いを包む時間軸で武蔵の戦史を尋ねていることにも

注目したい。必ずしも過去→未来の時間軸で語る

訳ではない。言わば、過去→未来→現代の時間軸

の次第で武蔵対梅軒の戦いが尋ねられるのである。

 

 「序篇」において伊藤大輔は熱眼熱手の熱気を

抑え冷静に武蔵の戦史を観察する。

 

 初代中村錦之助は「序篇」「本篇」で宮本武蔵を

深い芸で鋭く探求する。本作の武蔵は戦に勝つ

為ならば手段を選ばない。剣士と剣士、武道家と

武道家の決闘は命のやり取りの殺し合いであり、

生き残る為に相手の命を奪うという有り方を徹底

している。

 

 武蔵は、宍戸梅軒の鎖鎌に熱い関心を抱き、

その手腕を観たいと希望し、命がけで彼に近付

く。

 

 梅軒が会話の質問から出会った剣士が著名

な剣豪であり、妻槇の兄典馬の仇である宮本

武蔵であることに気付く過程はスリルがある。

 

 三國連太郎の宍戸梅軒は凄みがあり迫力豊か

だ。

 

 沖山秀子のお槇は鎖鎌の闘魂と息子を愛する

母性を豊かに表現する。

 

 

 吉川英治の原作小説『宮本武蔵』において辻風

典馬は梅軒の兄である。『真剣勝負』においては

梅軒の妻槇の兄が典馬という設定である。この改

変も重要である。

 

 即ち原作において宍戸梅軒は自身の兄の仇討ち

で仇武蔵に挑むが、『真剣勝負』ではお槇の無念を

晴らしたいという夫婦愛から武蔵に仇討ち戦を挑む

のである。

 

 武蔵は八人衆を倒し、梅軒・槇夫妻を動揺させる

為に夫婦の愛児太郎治を人質に取るという卑怯な

戦法を使う。

 

 勝つ為ならばどんな卑劣な方法も用いる。これ

が『真剣勝負』の宮本武蔵である。

 中村錦之助が武蔵の冷酷さを涼やかに演じる。

沖山秀子がお槇の悲しみを熱く表現する。

 

  『宮本武蔵』という日本的人間像を、ぼくは

  ある種の日本的マキャベリストとして、とら

  えたつもりです。「われ事において後悔せず」

  と、彼は「五輪の書」に書きのこしています。

  試合は勝たなかったら意味がない、と彼は

  思っている。

  (『内田吐夢新春随想』

   『「命一コマ」映画監督 内田吐夢の全貌』

   193頁

   平成二十二年八月七日発行

   エコールセザム)

 

 『キネマ旬報』昭和四十一年新春特別号にお

いて吐夢が語った言葉である。

 

 宮本武蔵という人間を試合で勝利を求める男

として確かめる。

 

 東映版『宮本武蔵』五部作では勝利の為に相

手を倒し斬り、血を流して苦悩する人間像が描

かれた。

 だが、『真剣勝負』の武蔵は徹頭徹尾勝利を求

め、冷徹に行動する人間である。

 

 同じ主人公を同じ役者が勤めているが、人物

像の描き方には変化があり、熱く苦悩する男か

ら冷厳に作戦を立てて行動する男に変化がある

ことには注目したい。

 

 昭和四十五年(1970年)一月三十一日の内田

家家族会議で、吐夢は妻芳子、長男一作、次男

有作に愛人との間に生まれた息子琢磨の存在

を打ち明け、彼の中学進学に当たり、父親として

の認知を許めて欲しいと頼んだ。

 

 芳子は泣き、一作は自身の部屋に去り、有作

は糾弾した。

 

 鈴木尚之は、息子琢磨への吐夢の愛は、太郎

治を守ろうとするお槇の母性愛と呼応すると分析

する。

 

 お槇は兄の仇討ちよりも息子太郎治の無事が

大事と母の愛に生きる。

 

 梅軒はその言葉を聞き愕然とする。

 

 このシーンの三國連太郎の悲しみの演技も強烈

な印象を与えてくれる。

 

 風車は太郎治を見守るようだ。

 

 危機にある我が子を守る為に親は命を賭けつくす。

お槇の涙ながらの太郎治救出は、吐夢の琢磨への

父性愛と照応する。

 

 昭和四十五年(1970年)四月二十六日、『真剣勝

負』スタッフ・キャストは内田吐夢監督の七十二歳

誕生日を祝った。

 

 二十八日御殿場ロケにおいて吐夢は心臓発作で

倒れた。東京慶応病院に入院と胃癌と肺結核と診

断された。

 

   あの枯草原に、緑の芽がふき出したら、フィル

   ムがつながらくなくなる

   (『私説 内田吐夢伝』420頁)

 

 

 吐夢の希望で五月十日撮影は再開し、十九日

に終わった。二十日に病院において吐夢は編集

を開始し六月十二日に作品を完成させた。

 

 『真剣勝負』は武蔵と梅軒の決闘の勝敗迄は描

かない。

 

 武蔵の剣と梅軒の鎖鎌に、強敵の凄まじさを両者

共に感嘆し、決戦を望む。

 

 一度は息子を人質に取り助けてくれた武蔵だが、

梅軒にとっては生涯の大勝負を賭ける相手として

の存在感があった。

 

 武蔵にとっても鎖鎌の名人梅軒を倒したいという

闘魂は湧いている。

 

 

 昭和四十五年(1970年)八月七日内田吐夢は七

十二歳で死去した。

 

   「ところで伊藤君、芸コンという言葉はあるか

   ね?」

   「聞かないなァ」

   「無いと困るよ。しかし、何だかありそうな言葉

   じゃないか。漢字で書いて、芸のタマシイ芸魂

   というのはどうだね?」

   「そんな熟語は辞書にはないよ。強いてコジつ

   けて新造するなら、大木の根っこの根を、ド根

   性のコンの意味にして、芸根とでもするかなァ」

   「芸の根っこの芸コンか、これャいい。それで安

    心した。有難う」

   (『伊藤大輔シナリオ集Ⅲ』369頁

    「追想片々ー内田吐夢のことー」

    昭和六十年七月二十五日発行 淡交社)

 

 『シナリオ』昭和四十五年(1970年)十月号に伊藤大

輔が書いた内田吐夢追悼文である。

 

 「芸コン」は吐夢の生き方そのものであった。伊藤

大輔はその闘魂に「芸根」と名付けてはどうかと提

案し吐夢も同意した。

 

 『真剣勝負』は昭和四十六年(1971年)二月二十日

に公開された。

 

 初代中村錦之助は昭和四十七年(1972年)芸名を

初代萬屋錦之介に改めた。

 

 昭和五十六年(1981年)七月十九日伊藤大輔は

八十一歳で死去した。

 『真剣勝負』が映画脚本の遺作となった。

 

 平成九年(1997年)三月十日、初代萬屋錦之介は

六十四歳で死去した。

 

 平成二十三年(2011年)三月二十一日、沖山秀子

は六十五歳で死去した。

 

 平成二十五年(2013年)四月十四日、三國連太郎

は九十歳で死去した。

 

  

 『真剣勝負』は、野火の中の叢で宮本武蔵と宍戸

梅軒の命賭けの決闘が始まるというところで物語が

終わる。

 

 

 

 「剣は暴力」の主題を、吐夢は未完の物語にお

いて打ち出す。

 

 未完を選ぶことで、剣の暴力性は無限のものと

しての広がりを示された。

 

 

 武蔵における戦は彼の生涯において限りなく続く

という事柄が内包されている。

 

 ◎

 平成十九年(2007年)三月十九日、管理人セブン

は拙ブログを開始した。当時のブログタイトルは『映

画感想ノート』である。

 

 

 第一回記事は『雄呂血』(大正十四年十一月二十

日公開 製作阪東妻三郎プロダクション 主演阪東

妻三郎 監督二川文太郎)の感想である。

雄呂血

 

 平成十九年(2007年)十二月一日ブログタイトルを

『ウルトラアイは我が命』に改めた。

 

 平成二十七年(2015年)七月一日ブログタイトルを

『俺の命はウルトラ・アイ』に改題した。

 

 『素浪人罷通る』の山内伊賀亮の宣言「俺の命だ」

と『宮本武蔵 般若坂の決斗』の宮本武蔵の叫び「剣

は念仏ではない!命だ」と『ウルトラセブン』「湖のひ

みつ」のモロボシ・ダンの言葉「ウルトラ・アイは僕の

命なんだ!」の三つからタイトルを名付けた。

 

 

 伊藤大輔映画・内田吐夢映画研究を根本主題とす

る当ブログは本記事で通算11081記事の投稿となる。

 

 ブログ十五歳誕生日の本日、伊藤大輔脚本、内田

吐夢監督『真剣勝負』感想を記した。

 

 

 内田吐夢は七十二歳の生命を、宮本武蔵の戦の

探求に燃やした。

 

 

 

                    合掌

 

                 南無阿弥陀仏

 

                   セブン