雄呂血 | 俺の命はウルトラ・アイ

雄呂血

『雄呂血』

映画 75分 無声 白黒

大正十四年(1925年)十一月二十日公開

製作国 大日本帝国

製作字幕言語 日本語

制作 阪東妻三郎プロダクション

配給 マキノプロダクション

 

 

総指揮  牧野省三

 

 

原作 寿々喜多呂九平

脚本  寿々喜多呂九平

撮影  石野静三

 

 

出演/括弧内は役名

 

 

 

 

阪東妻三郎(久利富平三郎)

 

 

 

 

環歌子(奈美江)

 

 

春路謙作(江崎真之丞)

中村吉松(赤城治郎三)

関操(松澄永山)

山村桃太郎(浪岡真八郎)

中村琴之助(二十日鼠の幸吉)

嵐しげ代(にらみの猫八)

安田善一郎(薄馬鹿の三太)

森静子(千代)

 

 

監督  二川文太郎

 

田村傳吉=沢村紀千助=阪東藤助

    =阪東要二郎=阪東妻三郎

    =岡山俊太郎

 

鑑賞日時・場所

平成十四年(2002年)十月十四日

京都みなみ会館において開かれた

阪妻映画祭

 

 

 阪東妻三郎主演の無声映画『雄呂血』

は、青年久利富平三郎の生一本で一徹な

生き方を明かした作品である。

 

 

 タイトルの『雄呂血』は「おろち」と読

む。「大蛇」に通じるものを思った。

 

 

 

 阪東妻三郎は明治三十四年(1901年)十

二月十四日東京府に誕生した。本名は田村

傳吉である。別名義の芸名に沢村紀千助・

阪東藤助・阪東要二郎・岡山俊太郎がある。

 昭和二十八年(1953年)七月七日京都府

京都市において死去した。満年齢五十一歳。

 

 

 『雄呂血』封切時は大正十四年(1925年)

十一月二十日である。阪妻は数え年二十四歳、

満年齢二十三歳の若さであった。

 

 

 平三郎が愛し続けた女性奈美江は、妻三郎

の昔からの盟友環歌子が勤めた。

 

 

 脚本は寿々喜多呂九平が書いた。緻密な

構成と繊細な心理描写で、純粋な若者の抵

抗の物語を鮮やかに語った。

 

 

 

 「日本映画の父」と呼ばれた人、牧野省三

が製作総指揮を担当した

 

 

 名匠二川文太郎が監督を担当した。

 

 

 

 若き武士久利富平三郎は、誠実で熱い男

だ。

 彼は奈美江という女性を愛していた。奈

美江は平三郎の漢学の師松澄永山の娘であ

る。

 

 

 家老の息子浪岡の挑発に乗って、酒席で

喧嘩をしてしまった平三郎は、崇拝してい

た永山先生から破門を宣告され、奈美江か

らも厳しい叱責を受ける。

 

 

 平三郎は全てを失い落魄の身となり放浪

の生活を送る。

 

 

 娘千代に出遇って奈美江の面影を観つつ、

恋心を覚えるがその恋にも破れる。

 

 

 

 

 

 恋に破れ社会的信用も失ってしまった久

利富は、やくざの親分治郎三の食客になる。

 

 

 治郎三は世間では義侠心に厚い親分とし

て知られていたが、裏では女達を泣かせて

いた。

 

 

 治郎左は病苦に喘ぐ侍江崎真之丞を助け

たが、目的は江崎の妻を奪うことであった。

江崎の妻は奈美江だった。

 

 

 久利富は、治郎三に対して堪えていた

怒りを爆発させ、奈美江とその夫真之丞

を救うために立ち上がった。

 

 

 平三郎の活躍で奈美江とその夫の危機

は救われるが、平三郎は沢山の敵に囲ま

れる。

 

 平三郎は治郎左を斬るが、無数の捕手

に囲まれ大激闘を為す。

 

 

 

 

 何の罪もない捕手を斬ってしまった

ことに、平三郎は激しく苦悩する。

 

 

 壮絶な激闘の末、平三郎は役人・捕手

たちに捕えられ、引きずられていく。

 

 

 無頼漢と呼ばれる久利富平三郎の姿を

見て、奈美江と夫真之丞は両手を合わせる。

 

 

 ☆

 久利富平三郎の生き方

 ☆

 

 

 

 

 『雄呂血』は久利富平三郎の大いなる勇気

を語る。

 

 

 愛するひと奈美江を守る為に、自身を犠牲に

して治郎三と戦う。

 

 

 平三郎の無償の愛が光っている。

 

 

 真っ直ぐで純粋な若者であった平三郎は青

春の日、余りにも純粋で一徹であった為に、

浪岡の挑発に乗ってしまい短気に走り喧嘩を

してしまった。

 

 

 二川演出と寿々喜多脚本は、愚直で純な

若者が真面目さ故に妥協出来ず、カッと怒

ってしまう様を鮮やかに描写する。

 

 誠実に生きてきた若者平三郎が、宴席の喧

嘩で破門され落魄しても、武士の魂を失うま

いと、決意して生きる姿勢に心を打たれた。

 

 

 愛する人奈美江の面影を千代に見出し、遠

い日のほのかな恋を想い起こす場面に切なさ

が極まる。

 

 

  世の中で善人といわれる者は

  必ずしも善人にあらず。

  悪人と言われる者も必ずしも

  悪人にあらず。

 

 

 これはこの映画のテーマである。脚本の寿々

喜多呂九平は善悪邪正、正義・不義といった表

面の印象だけでは、事柄はわからないことを語

りかけてているようだ。

 

 

 大詰めの阪妻の殺陣が圧巻だ。久利富が捕り

手の侍を斬って、罪悪感に苦悶する場面が忘れ

られない。

 

 剣にも恋にも誠実であろうとした彼は、例え

落魄しても信念を捨てない。

 

 

 

 だが、愛する奈美江を助けるためとはいえ、

何の恨みもない捕り手の命を奪ってしまった

ことに彼は悲しむ。

 

 

 自分の意志や思いを越えて、悲しいことを

為してしまうこともある。

 

 

 

 

 愚禿釈親鸞が『顕浄土真実教行証文類』に

おいて明かした「悲」を想起した。

 

 

 『歎異抄』において、親鸞は「宿業」の教

えを語っている。

 

 

 

 

 人は、思いを超えて、何の罪ない存在を傷

つけ苦しめてしまうことがあることを説かれ

ている。

 

 

 愛する人を守る為に、命を捨てて、義侠の

戦いを挑んだ。彼が慕った人は、夫と共に手

を合わせて感謝する。

 

 

 自分にとって損になる、とわかっていても、

大切な人を救わなければ、自分の存在意義も

ない、という愚直な男の生き様がある。

 

 

 クライマックスの殺陣は壮大であり圧倒さ

れる。

 

 みすみす損になることがわかっていても、

愛する人が危機にあるのを見て、義侠心から

立ち上がる久利富の勇気が観客の心に感動

を与えてくれる。

 

 

 久利富の生き方には、悲しみと優しさの

心がある。

 

 

 切なく悲しい映画だが、『雄呂血』には

暖かさがある。

 

 

 阪東妻三郎の大いなる芸は、久利富平三

郎の熱き命を燃やした。

 

 

 

 ☆

 平成十九年(2007年)三月十九日に

 発表した記事を、平成三十年(2018年)

 三月十九日に改訂した。

 

 令和四年(2022年)十月二十六日に記事

 を加筆した。

 ☆

 


            文中一部敬称略

 

                合掌

 

            南無阿弥陀仏

 

               セブン