お昼~息子のサッカー練習があった

 


午前は子供会のイベントで

出掛けていた息子

  


帰ってきてから

サッカー出発時間まであまり時間がなく

急いでごはんを食べて着替えをしていた

 


いつも自転車で行っている練習場だし

自転車で行くよね?の私


自転車で行くのイヤ

車で送って欲しい息子

(練習に遅刻したくない。自転車で、ギリギリ間に合う時間)


 


私は「送っていきたくない」

と言った

     


動く気が全く起きなかった


  


自分の正直な気持ちを言った時

考えるより口がもうしゃべってた感覚だった

のだが、、

 

 


私がそういった後

 


嫌だ、と言って

息子の表情が曇った(ように私には見えた)

 

嫌な空気になった(ように私は感じた)

   

 


この空気を切り替えたい

 


居心地が悪い…

  

  




一瞬のうちに本音を言ってしまった後悔と

私は優しくない、ヒドイ母かもしれないと不安に

襲われかけ

 


もう送ってったるわ!と感情的に

居心地の悪さから抜け出そうと

良い母親を演じ、自分に嘘をつく選択肢が

頭に浮かんだ

 

  

その選択肢を選ぶことや

ごちゃごちゃといらんことを話して

気を紛らわせたり

笑いに変えようとしたり

 


場の空気を無理矢理変えようとすることも

選択肢としてなかったわけじゃない

 


なぜなら

罪悪感を打ち消すために

嫌な空気を感じたくなくて

今まで幾度となくやってきたことだったから

 


しかし、今日は今までの選択肢を何1つ選ばず

グッとこらえて

その居心地の悪さ

嫌な空気の中に鎮座した


 


すると、少しの間の後

息子が動き出した

自転車で行く準備を始めた

 

 

罪悪感に負けずに

乗り越えられた!体感があった



罪悪感の後味が完全になくなったわけじゃなかった

 


でも、私は自分の選択したまま

進もうと思った

 


「焦ってもいいけど車に気をつけて行くんだよ」

 


私が息子に最も伝えたかった言葉をかけて

息子を送り出した




さやちゃんが吉野経営塾のZoomで

「罪悪感と快楽はセット」

「身体の罪悪感に負けると、労働に走る」

と話していた

 

 


まさに

あの時の私は身体の罪悪感に負けるか

乗り越えるかの帰路にいた



負けていたら

動きたくない私の身体にムチを打って

労働させていたことだろう



労働して、もしすっきりしたように感じても

それは偽りのうわべだけのスッキリだ

 


私の本音を私は聞いてあげられなかった

やっぱり自分はダメだ、、弱いと

自分とのパートナーシップは壊滅的で

 


こういう積み重ねが

自分への自信のなさ

自己信頼の低さになっていたんだと思ったら

  


日常の些細な選択の積み重ねでしか

自分との良好なパートナーシップは

築けていけないのだと改めて思った




世間から認められる

良い母親になんてならなくていい


子供の要求に何でもいつでも

答えてあげる母親にならなくていい

 

 

私は自分の本音をちゃんと聞いて

行動しできる人間で在りたい


そう思った







 






娘が退院して

2日目の今日
 
私は咽頭炎でダウン💦

 
朝から息子や姉の登校時に
たくさんヘルプしてくれた末娘

 
お昼ごはんは鍋の元を使って
食べたかったとんこつラーメンを
ほぼ一人で作り

夜ご飯は子供3人で相談して、とお任せしたら
「出前一丁🍜にした」と報告を受けた

 
部活帰りの長女とサッカーのナイター前の息子
を前に

ネギを切って、ラーメン作りを率先して
やる末娘
 
もやしやねぎの量を
ちゃんと相手に確認してた 笑 
(私はやらない) さすがや!オーダーメイド。

夜ご飯後、暫くしたら
「ナポリタンが食べたい🍝」って
末娘が言い出して😂

簡単だから作りな、と促したら
一人じゃできない
私は動けん
 

そんなやりとりをしながら
とりあえず、パスタをゆでるお湯を沸かしな~
と私は言葉だけですべての行程の説明を
したら

全部一人でやりきって
ナポリタンを完成させた!!



もう、本当にびっくりしている👀✨
娘のバイタリティー溢れる行動に

  

体調不良が長かった
入院していた
自分で思うようにやれない、できない期間が
あったからこその今のジャンプなのか?

それも一理ありそう
 
 
でもしばらくしてハッとした
 

彼女の姿は
【人間誰しもが元々持っているバイタリティーである】

私の中で合点した
  

 
子育てで大事なのは

「何をしてあげるか」
ではなく
「何をしないか」  と聞いたことがある
  

 
子供の才能、子供の本来の素質を
いかに親(大人)がその芽を潰さないか
もぎ取らないか
 

私たち親(大人)の最大のミッションは
余計なことをしないこと なんだ
 
 

自分が今できない状況があって

子供が生き生きと
主体的に自分のできることをして
自分の可能性を最大に発揮している
 

目の前に起きることを
冷静に見ながら納得感が半端ないー!

 

そして私の中で密かに
心に留めていて
やりたいと思っていたことがある

「子育てママさんの気持ちがふわっと軽くなる
お話し会がしたい」
 
 
しんどかった過去の激怒鬼ママ時代の
自分に届けたい
 

こんな視点で物事を考えてみたらどうだろう?
この考え方でみた時、見える世界はどうだろう?

私はいつも
それまで自分にはなかった視点で
物事が見れた時に
それまでの「悩んでいる」という状態から
抜け出せて
「ということは、こう考えればいいのか?」
と気持ちが軽くなり
問題が問題じゃなくなったことを
経験して
助けられてきた
 
 
起きてもない未来に不安・心配をしたり
過ごすのか

何が起きても大丈夫と安心感の中で過ごすのか
 

そんな話も出来たらいいな🎵
 
 
宣言したので
あとは実行するだけだ~
 
 
#2026年の抱負
#お話し会開催をする
#子育てママのお話し会
#愛知県清須市
昨日、吉野経営塾のZoom配信で

 

「親が一人で頑張って背負うのではなく
子供にお願いしたらいいと思う」
 

(言い方は違うかもだけど。こんなニュアンス
だったと思う)
ってさやちゃんが言ってて
 
 
私はコメントで
「子供にお願いチャレンジをして、今はお願いすることに抵抗がなくなってきました」


と入れたら
 
 
「お願いすることに抵抗あるの?」
とさやちゃんが言っていたので
ちょっと自分の内側を言語化してみようと思った

 
 
 

私が物心ついた時~実家にいる頃
家のことはすべて母がやっていた


父の会社の手伝い
家のこと
子供のこと、おばぁちゃんのこと
すべてを一人で頑張っていて
 

何でも一人でやりこなす母の姿から
「母とはそういうもの」が
私の中に刻み込まれた


忙しく大変そうにしている母のことを
子供ながらに助けたい、私も力になりたい
と思っていたのだが


母は母のペースがあり
母のやり方があり
時間的にも心の余裕もなくて
自分で全部やった方が早くて


子供の私たちが「手伝うこと」
 =邪魔、厄介、仕事が増える


そして
私たち子供の存在を
「何をしでかすか分からない存在」
「信用できない存在」

って思っていたんじゃないか、と思う


大好きな母を助けられない、力になれない
信頼されていない
という無力感・絶望感・悲しみ・悔しさ
  

子供ながらに
もう鎧をつけてでも
自分を必死に守るほかなかったよな、と思う


  

 
 
時は経ち
自分が母となり、立場が変わった


子供たちが小さくて手がかかる時期を過ぎ
いろんなことが自分達で出来るようになってきた頃


家のことを
私だけじゃなくて
家族みんなで分担して出来たら
チーム家族になれたら最高だな、と
思った時があった
 
 
それは(自分が母になってから)母の姿を見ていて
一人の負担が大きすぎると思ったから
 

そして
私は母のように要領よく何でもスピーディーに
次から次へとこなせないな、と
一人でやるキャパオーバーを感じたから
  

さらに本音は
「母(私)だって楽したい」だった照れ
 
   


そこから
私が楽できるよう、チーム家族になれるよう
「子供に家のことをお願いするチャレンジ」
が始まった
 
   

なんせ、自分がお願いされてきた経験がないから
家のことは母が一人でやるものだ!と思ってきたから


お願いすることに、はじめの頃
めちゃくちゃ罪悪感や抵抗感が出た
 
 
「頼まなくても、あんた頑張ればやれるでしょ」
「子供に頼むなんて、手抜きだ」
「楽しやがって」
「母ならすべてやるべきだ」
 

そんな風にたたみかけてくる頭の声
  

でも、幸い
自治会の役員をしていた時期で
家を空けることが多かったから
頼まざるを得ない状況はまだ
お願いしやすさがあった
  

その状況下だったから
お願いチャレンジを重ね
馴染ませていくことができたのは事実

 
体調不良とか
私的に正当な理由があれば
お願いしやすかった

 
 
お願いすることで
はじめの頃、私は何を感じていたか
 

「お願いしたんだから、文句は言えない」 
って思っていた

 
お願いされて、やったのに
あーだこーだ言われたら次からもうやらん!
ってなった経験、ないですか?


私はあります、、、


それを知っているから
お願いすることって楽な反面
結構腹に力がいる、、というか


でもお願いされた子供たちも
最初、説明はされるものの
わからんなりにやってくれて
やるうちにやり方やコツを掴んできたりするもので
 

そこをこちらは
じっと待つ、見守るというような
忍耐力が必要ではあった


そして
自分のやり方にこだわりがあり過ぎたり
それを相手に求め過ぎてしまうと
「お願いする」「任せる」「委ねる」
ハードルが一気に高くなるな、と感じた
 
 
本当に大事にしたいこと
共有しておきたいことを伝えるのは
自分の精神を守るために
お互いが気持ちよくいられるために
大事にしたいことだけれど
 

相手は相手のやり方がある、ことを分かっておく
(結局は目標が達成されれば、やり方はどんな風でもいいと思えるようになった)

未熟、慣れていない段階であることをきちんと認識しておく

といったようなこちらの気の持ちようや受け止める器も同時に必要だった
 
  

少しずつ何度も子供にお願いするチャレンジを
してきたので
今や私の罪悪感や抵抗感はかなり薄れてきている
 


楽したい私
在りたい家族の形、姿があるなら
馴染むまでやるしかない
  
 

任せられる経験を通して

「私には力がある」
「家族の一員として存在している」
「信頼されている」

が子供の中に刻まれていたらいいな、と思う