大阪のヘイトハラスメント裁判(2)―新しい共同的な生を | 具志アンデルソン飛雄馬公式ブログ

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1990年来日、壮絶ないじめに遭った経験から現在、全国で人権講演会をしている45歳の4人のパパ、孫も居ます 子どもを育てる傍ら、全国で講演活動を展開中 20年間で1200以上の講演を達成 多くの差別事件を摘発し、解決に取り組む 多文化共生NPO世界人理事長

ゆめネットみえ通信(宮本正人ブログ)

大阪のヘイトハラスメント裁判(2)―新しい共同的な生

 前回は、大阪のヘイトハラスメント裁判から、人間の尊厳を示すことで差別や不正義と闘うことの意義について書きましたが、今回は、「フジ住宅」(一部上場企業で社員・パート職員合わせて約1000人)と会長による配布文書の差別性や大阪地裁の差別に対する認識の問題について取りあげてみたいと思います。

 

「帝国意識」の継続

 差別という言葉は、日常語として広く使われていますが、差別の定義づけや概念規定も論者の視点・視座によって異なり、さまざま定義が試みられています。ここでは、長年にわたって差別問題を研究してきた社会学者の野口道彦・大阪市立大学名誉教授の「差別」「差別意識」の「定義」(部落解放・人権研究所編『部落問題・人権事典』解放出版社、2001年、386―387頁)に基づいて、「フジ住宅」と会長による配布文書の差別性の問題を考えてみます。

  この裁判の提訴及び判決を報じた『朝日新聞』の記事や大阪地方裁判所堺支部(以下、大阪地裁と略す)の判決文によると、会長が配布した文書(インターネットで配信された記事や公刊物等)の内容は、在日を含む中国や韓国、北朝鮮を強く批判したり、そうした国の人々などを「死ねよ」「嘘つき」「卑劣」「野生動物」などと激しい人格攻撃の文言を用いて侮辱したりする一方で、日本の国籍や民族的出自を有する者を讃美して中国や韓国、北朝鮮に対する優越性を述べたりするなどの意見を表明したものでした。

そして、このような「社員研修」によって、被害者の女性が「偏見で社内が盛り上がっていくのがこわかった」と語っているように、「韓国は、日本に併合して貰っていなかったらロシアの配下となり、スターリンにでも虐殺されていたと思います。さすがに嘘はついても責任を取らない、嘘が蔓延している民族性だと思いました。」「中国、韓国の国民性は私も大嫌い」などという感想を抱いた社員が「育成」される結果へとつながっていったのでした。

 差別について、野口氏は「個人の特性を無視し、所属している社会的カテゴリーに基づいて、合理的に説明できないような異なった(不利益な)取り扱いをすること」と定義し、差別は、「基本的には行為レベルのものを指す」として、「差別行為には、集団的抹殺、暴行、財産の略奪といった身体的暴力という激烈なものから、差別扇動、侮辱、差別表現など、言語的攻撃ないし直接侮辱する意図はないがネガティブな意味づけを含んだ慣用的表現、さらには排除、忌避、無視などの隠微な行為まで含まれる」と説明しています。また、差別意識についても「差別意識(偏見)は一定の集団についての否定的な信念や感情を意味する。それゆえ差別意識(偏見)は、特定集団に対する差別を正当化し強化する方向で作動する」と指摘しています。

 このような野口氏の定義に拠るならば、フジ住宅および会長の行為は、「日本の国籍や民族的出自を有する者を讃美して中国や韓国、北朝鮮に対する優越性」の主張を「正当化」するために、「在日を含む中国や韓国も北朝鮮」に対する「否定的な信念や感情」に基づいて「侮辱」する等の「言語的攻撃」であり、人種差別であることは明白です。そして、そこには、かつてアジアで日本が植民地化および占領した地域やその住民を見下す人種主義的な尊大さが露骨に顕われています。

 差別問題を中心に日本思想を研究する歴史学者のひろたまさき氏は、戦前の日本帝国の成立の過程で形成されていった「帝国意識」について、「他民族の社会を支配あるいは従属させることを当然とし、そこにアイデンティティをもつ意識のことで、それは必然的に支配する相手の民族を抑圧・差別することを当然とする意識を伴います」(『差別からみる日本の歴史』解放出版社、2008年、287頁)と指摘していますが、このフジ住宅及び会長の行為は、敗戦によって日本帝国は崩壊したにもかかわらず、中国人や韓国・朝鮮人を侮辱する人種主義・植民地主義=「帝国意識」がいまだに根強く存続しているという問題を浮き彫りにしていると言えます。

 

差別の認定をめぐって

 このような会社及び会長が配布した文書について、大阪地裁は「特定の国民に対する顕著な嫌悪感情に基づき、それらを批判・中傷する内容の文献や自己が強く支持する特定の歴史観・政治的見解が記載された文書」と認定し、そうした中傷文書を反復継続して大量に配布したのは、女性の名誉感情を害するのみならず、会社側から差別的取り扱いを受けるのではないかという危惧感を女性に抱かせ、女性の内心の「静穏」を害するものと指摘、女性の「人格的利益を侵害して違法」と判断しました。

 この判決は、①配布文書について、「差別」という表現を使っていませんが、「顕著な嫌悪感情」(=差別意識)に基づく「批判・中傷」(侮辱などの言語的攻撃)であるとして、実質的には差別文書であると認定していること、②判決後の会見で女性が「私の心の痛みをくみ取ってくれた」と語っているように、女性に寄り添い、女性の身になって考えようとしていること、③職場における労働者の「人格的な利益」(労働者の「静穏」な環境で働く権利や職場での思想信条の自由)を重視することを明確にした点で、企業の社会的責任(CSR)として人権の重視を掲げたISO(国際標準化機構)の国際規格(2010年11月に発行したISO2600)に適合していることなど、非常に高く評価できる内容となっています。

 その一方、大阪地裁は、文書が女性を念頭において書かれたものではなく、中国や韓国、北朝鮮の国家や国民性、民族性といった一般的、抽象的な集団について侮辱、嫌悪などの悪感情を抱かせるものではあるものの、女性との結びつきが明確でなく、文書配布が女性個人に対する差別的言動とは認定できないので、違法ではないとの判断を示しました。

 この大阪地裁の認定は、中国人や韓国・朝鮮人に対して人種的な優越意識が存続している日本社会の中で、小学校高学年から日本名を使わず本名で暮らしてきた女性を内在的に理解しようとしたものとは到底いえないことは明らかです。差別の認定にあたって、大阪地裁は、労働者としての女性の「人格的な利益」を判断した時とは真逆なことを行っているのではないでしょうか。

 このような大阪地裁の認定について、原告の弁護団は「人種差別撤廃条約及びヘイトスピーチ解消法の主旨に照らして不当であり、人種差別の本質・問題性を理解していないといわざるを得ない」という「声明」を出しています。

差別の認定に関する大阪地裁のこの認定は、人権運動の根幹を揺るがすものであり、看過できない大きな問題を含んでいると、私は考えています。次に私が経験した二つの事例を紹介し、その誤りについて明らかにしたいと思います。

 

大阪地裁の判断の誤り

 二つの事例のうち一つは、今から50年近く前に私が直接体験したことです。大学の一回生の夏に、その当時つきあっていた同級生の女性から「親が興信所を使って身元調査を行った。その調査報告書を自分に見せて、『宮本は同和地区出身だから、深いつきあいをしないように』と注意された」と告白されました。私は中学生の時に自分が差別される側の当事者であることを知りましたが、その告白を聞いた時には、私自身だけでなく、私の家族とか、地域の人たち全部を足蹴にされたような屈辱感を抱きました。(詳しいことは拙著『未来へつなぐ解放運動 絶望から再生への〈光芒のきざし〉』明石書店、2013年に書きました)。

 もう一つは、すでに故人となりましたが、今から30年ほど前に私の知人Aさんが体験したことです。1988年の3月、大和ハウス工業株式会社の新入社員研修会が開かれ、そこに大学を卒業したばかりの三重県の被差別部落出身のAさんも参加していました。そして、その研修会での講義「わが社のいき方」のなかで、取締役が「君ら新入社員は同和地区にかかわるな。」「だいたいぼくは同和なんてきらいだ」という発言を行ったのでした。

 この被差別部落を侮辱する差別発言は、「一般的中傷的な集団について侮辱、嫌悪などの悪感情を抱かせるもの」(先の大阪地裁での判決の表現)であり、Aさん個人に向けられたものではありませんでした。しかし、高校を卒業して就職していた時にも差別された経験があるAさんは、この差別発言に深く傷つき、「腹の底から許せへん」と抗議の声をあげ、採用内定を辞退しました。そして、Aさん及び部落解放運動団体と会社との直接の話し合いの結果、会社側は差別発言を認めて、Aさん個人と部落解放運動団体(被差別部落を代表するものとして)に謝罪を行い、会社の重点テーマとして人権啓発に取り組むことを約束しました。(部落解放同盟中央本部機関紙『解放新聞』1988年8月15日・12月12日。なお、この「事件」後の大和ハウス工業株式会社の人権啓発の取り組みについては、大和ハウス工業株式会社・2012年度循環ワ―カ―養成講座「地域との共創共生を目指した価値の創造」に詳しく書かれています。)

 こうした「スティグマ」(烙印、徴)を付与された集団とその集団に所属する成員の差別や屈辱の問題について、自分自身も在英時代に移民局へ出向いた時に差別を受けた経験がある人種主義の研究者の酒井直樹・コーネル大学教授は「屈辱の経験が重要なのは、屈辱は決して屈辱的な行為の対象となった個人にのみに限られる感情ではないからである。私の家族の一員が辱しめられたとき、私は憤りを感じることもできる。あるいは、ある集団に対する辱しめの行為が過去に起こったとしても、その集団に帰属する私が現時点で傷つくことは可能なのである。屈辱は集団への自己画定と補足的な関係にあり、集団への自己確定が屈辱の感情の伝染性の条件になることはしばしば起こる。」(「多民族国家における国民的主体の政策と少数マイノリティの統合」『岩波講座近代日本の文化史』7、岩波書店、2002年)と指摘しています。

 「スティグマを付与された集団に所属する人々は、その集団の成員であることだけが理由で、不当な扱いや評価を受けやすい」(浅井暢子「所属集団に対する差別・優遇が原因帰属に与える影響」『心理学研究』第77巻第4号、2006年)ことは言うまでもありません。私やAさんのように、そうした不当な扱いや評価を受けた経験がある人も数多く存在しています。したがって、在日三世として自己画定していた女性が、所属集団に対する差別言動を自分にも向けられたものとして受けとるのは当然のことであり、特定集団への差別的言動とその成員である女性との結びつきが明確でなく、文書配布が女性に対する差別的言動とは認定できない、という大阪地裁の判断の謝りは明らかだといえるでしょう。

 

差別を隠蔽する構造の問題

 前回のブログで紹介した金教授は、「日本においては構造的に人種差別の被害が“ないこと”にしてしまう仕組み成立して」おり、そのことに関連して差別を差別として認識しない認知バイアスが「アカデミア」「マスメディア」「司法」「行政」という社会制度にも浸透していると指摘しています(金明秀「日本における人種差別の被害実態について」人種差別実態調査研究会編『日本国内における人種差別実態に関する調査報告書』[2016年版])。そうしたことからすると、会社及び会長による差別文書の配布が女性個人に対する差別的言動とは認定できないとした大阪地裁の判断は、実は日本の社会制度の中に存在している「人種差別の被害が“ないこと”にしてしまう」歪んだ認知バイアスが大きく影響しているといえるのではないでしょうか。

 この日本における人種主義の隠蔽の問題については、帝国意識を存続させる戦後日本の国家体制との関連から改めて述べてみたいと考えていますが、最後に、「人種主義に汚染されていない、人種主義から完全に潔白になれる場所は、私たちの歴史の地平にはないのである。」(「レイシズム・スタディーズへの視座」鵜飼哲,酒井直樹,T・モーリス=スズキ,李孝徳『レイシズム・スタディーズ』以文社、2012年)と指摘する酒井直樹氏の「人種主義の批判によって私たちが求めているのは、(略)私たちを分断し、競争させ、孤立させてゆくものを見いだし、その代わりに、私たちが人びととつながること、新しい共同的な生を探し求めること、そして、人びとと協力しつつ、これまでと違った未来を一緒に築いてゆくこと」(同前)という言葉を書き留めておきたいと思います。 

このヘイトハラスメント裁判を闘っている人たちの共通の願いがそこにあると思えるからです。