第1回 英吉利法律学校第1年級修了証から見た開講科目

 英吉利法律学校開校時(注1)の修了証書をもとに開講状況を推理した。証書は開校した1885(明治18)年の第1年級(第1学年)と1886年の第2年級の修了証書である。いずれも修了者は神谷泰一氏(注2)で同一人物である。

 修了証書には、科目名と担当した講師の氏名が列記されている。したがって開講状況(注3)を推測する貴重な情報源である。

 以下では、修了証書、当時の科目・担任表、当時の学年試験、設置認可申請書、同校の広告、同校の年史、講義録発行の広告をもとに比較考察した。記述量が多いため、第1年級と第2年級とを分けるなどして、4つに分けて報告する。

  第1回: 1年級修了証書を中心にした比較
  第2回: 2年級修了証書を中心にした比較
  第3回: 2年級講義録発行の広告
  第4回: 他の法律学校の授業科目

 なお、修了証の形式や意匠について報告、考察した私のブログ「英吉利法律学校修了証の不思議」もご覧いただければ幸いである。

  注1: 英吉利法律学校は、1885年9月に開校した。修業年限3年、学年の始期は9月、終期は翌年の7月である。
注2: 神谷が修業年限3年を終えて1888(明治21)年7月に卒業していることは、中央大学ウェブサイトで公開されている次の資料で確認できる。『東京法学院学則 : 明治二十三年八月』の明治21年7月卒業生姓名(p.35)。なお、英吉利法律学校は1889(明治22)年に東京法学院と名称を変更した。
 この修了証書の持ち主であった神谷泰一については、私の次のブログで紹介した。「英吉利法律学校 第1回卒業生 神谷泰一氏の軌跡」、「<補論> 英吉利法律学校 第1回卒業生 神谷泰一氏の軌跡」。
注3: 開校1年目は、開講科目に科目区分はなかったようである。また、学年ごとの履修条件、卒業に必要な要件は、明示的には定められていなかったようである。このことは、比較対象とした以下の(1)から(6)のいずれにも記述はないことによる。神谷は、以下の比較表にあるとおり、すべての開講科目を履修したわけではない。
 開校2年目には、学年当初に、一般の科目に加え「臨時講義」が置かれ、学年の途中で、「参考科」[目]、「科外」[科目]が置かれた。このことは、このブログの第2回で比較対象とする資料(開校2年目の『英吉利法律講義録』に付された「教課及受持講師姓名」)によって明らかである。また、履修条件、卒業要件はなお明示的には定められていない。

 比較対照した資料は以下のとおりである。

(1) 中央大学百年史編集委員会専門委員会『中央大学百年史』通史編上巻(中央大学、2001年3月)の110ページに掲載されている科目と担当教員である。その108ページに「『英国財産法』末尾に掲載された1886年5月の講義録に記載されている設置科目」をまとめたとある(注4)。同時期(リアルタイム)の科目とその担当教員を表しているはずである。「講義録(1886年5月)」と略記した。

(2) 1886(明治19)年7月に行なわれた学年試験の科目と担当教員である。『中央大学百年史』資料編(中央大学、2005年10月)の88ページから100ページに掲載されている「英吉利法律学校学年試験問題(明治19年7月)」である。同時期(リアルタイム)の科目とその担当教員を表しているはずである。「学年試験(1886年7月)」と略記した。

(3) 1885(明治18)年7月の東京府決裁文書に含まれている「私立学校設置願」(設置認可申請書)である。中央大学ウェブサイトの中央大学史資料集』第1集に「英吉利法律学校設置(明治十八年七月)」として翻刻が掲載されている。また、『中央大学百年史』資料編(中央大学、2005年10月)の68から77ページにも翻刻されている。「認可申請書(1885年7月)」と略記した。

(4) 『郵便報知新聞』第3731号(1885年7月30日発行)の附録に掲載された「英吉利法律学校設置広告」である。菅原彬州 「中央大学における戦前の通信教育」(『中央大学史紀要』第2号(1990年2月)) の4ページから9ページに翻刻を掲載している。「設置広告(1885年7月30日)」と略記した。

(5) 中央大学二十年史』(1905年11月) 「第1章 創立」中「9 学科及講師」の第1学年部分(12-13ページ)の科目と担当教員である。同書第5章学則にも科目が列挙されているが、列挙順も含めて第1章と同一である。「中央大学20年史」と略記した。(注5)。
 なお、20年史とは別に『中央大学三十年史』も刊行された。そこに記載された科目やその順には20年史と軽微な異同があるが煩雑を避けて比較対象とはしなかった。

(6) 中央大学五十年史』(1935年11月)の「第4 学則及課程」の第1学年部分(45-46ページ)である。「中央大学50年史」と略記した。

(7) 参考として、「私立法律学校特別監督条規」(1887年1月実施)に定められた開講科目を掲げた。英吉利法律学校は、この条規に基づき専修学校(後の専修大学)などとともに指定校とされた。科目名の末尾に「*」を付した。

  注4:  『英国財産法』とは、中央大学図書館所蔵の次の資料であろう。
  標題および責任表示    財産法 / 増島六一郎講義 ; 田中成美筆記
  出版・頒布事項    [東京] : [英吉利法律学校] , 明治19[1886]
  形態事項    281p ; 18cm
  注記    装丁 ; 和装
  注記    [英吉利法律学校講義録第ニ学年明治19年]
  注記    12行30字子持枠
  注記    巻末に教科及受持講師姓名
  注記    目次書名:英國財産法

注5: 『中央大学二十年史』にはこの部分とは別に「第5章 学則」に科目だけを列挙している。「第4回: 他の法律学校の授業科目」ブログを参照してほしい。

1) [英吉利法律学校第1年級修了証] (注6)

証書文面は以下のとおり(縦書きを横書きにした)。

  神谷泰一本校第一年級ノ課程ヲ履シ試業ヲ完ウセリ茲に之ヲ證ス

  法学通論 米国法律学士 正六位 菊池武夫
  法学士 正七位 渡辺安積
  契約法 法学士 従七位 土方寧
  私犯法 法学士 正七位 奥田義人
  親族法      
  代理法 法学士 正七位 山田喜之助 (注7)
  組合法      
  刑法 法学士   岡山兼吉
  動産委託法 法学士   元田肇
  亜米利加法律 米国法律学士   シドモール
    明治十九年七月十七日    
    英吉利法律学校長増島六一郎    
  注6 神谷と同期の人物の修了証が『中央大学百年史』通史編上巻(中央大学、2001年3月)の126ページに掲載されている。そこに記載された科目名、担当教員名、記載順序は、神谷修了証とまったく同一である。
注7 親族法、代理法、組合法の3科目は、山田喜之助が担当したという意味である。担当者名を繰り返して表示していない。

2)対照結果
1885年第1年級の開講科目
 修了証書に表示された科目と担当者を中心に、他の資料と対照した。
 その結果は、次のとおりだ。

(1)修了証と講義録との比較
講師の異同: 修了証と講義録にある講師とが異なる科目が、9科目中1科目あること。具体的には、組合法である。
科目の異同: 修了証の亜米利加法律が、講義録では表記が「米利堅法律」となっている。 
科目の記載順序: 両者は同一である。

(2)修了書と学年試験との比較
講師の異同: 両者は同一である。

科目の異同: 両者は同一である。
科目の記載順序: 両者は同一である。

(3)修了書と認可申請書との比較
科目の異同: 修了証の亜米利加法律が認可申請書には存在しない。
科目の記載順序: 亜米利加法律の有無を除いて、両者は同一である。

(4)修了証と設置広告との比較
講師の異同: 設置広告での講師が変更になっている科目が、8科目中4科目あること。具体的には、契約法、私犯法、代理法、組合法が異なる講師が担当した。
科目の異同: 修了証の亜米利加法律が設置広告には存在しない。
科目の記載順序: 亜米利加法律の有無を除いて、両者は同一である。

(5)修了証と20年史との比較
講師の異同: 修了証と年史にある講師とが異なる科目が、8科目中3科目あること。具体的には、私犯法、代理法、組合法である。
科目の異同: 修了証の亜米利加法律が年史には存在しない。
科目の記載順序: 亜米利加法律の有無を除いて、両者は同一である。

(6)修了証と50年史との比較
科目の異同: 修了証の亜米利加法律が年史には存在しない。
科目の記載順序: 刑法の記載位置が異なる。年史では2番目に記載している。

 

3)考察
(1)科目について
 認可申請書に記載された9科目が事実上の「基本科目」であったようだ。
 この9科目のうち論理学を除く法律8科目について学年試験が実施されていることもそれを裏付けてる。
 一方で、8科目以外の亜米利加法律などの科目については学年試験が実施されていない。
a)基本科目の9科目
 開校前の認可申請書、設置広告に掲げられた9科目は、基本科目としてそのまま踏襲され、開校後の実際の科目とほぼ一致する。
b)私立法律学校特別監督条規
 論理学を除く8つの基本科目は、「私立法律学校特別監督条規」に定める科目と完全に一致する。
c) 学年試験を行なった科目
 論理学を除く8つの基本科目について行なわれている。
d)学年試験を行なわない科目
 一方で、羅馬法、英国刑法、英国判決例、論理学については学年試験が行なわれていない模様である。なお、羅馬法については、翌1886年度1年級の羅馬法の講義の冒頭で、担当教員渡辺安積は、羅馬法は1885年度の半ばから科外科目として開講したと述べている(『英吉利法律講義録』(1886年度第1年級第1号、1886年9月))。このことから、試験は行われなかったのかもしれない。
e)同期生の修了証書
 同期の修了生の証書と神谷の証書には、まったく同じ科目が記載されていることから、多くの学生は、論理学を除く8つの基本科目を中心に履修し、試験を受けたと推測する。
f)科目掲載順序
  修了証書、講義録、学年試験、認可申請書、20年史の掲載順はまったく同一であることから、学校としての科目の重み付け、グルーピングを反映したものであろう。その順は、法学通論、契約法、私犯法、親族法、刑法、代理法、組合法、動産委託法である。
 50年史では刑法を2番目に掲げていることから、何か異なる考え、あるいは、混乱があったのかもしれない。

(2)担当教員について
 開校時に予定していた科目、担当教員の組み合わせは、以下に掲げるように多くの変更があった。
a)契約法
 設置広告の渡辺安積が土方寧に変わっている。これは、渡辺の健康がすぐれず、1885年10月はじめに転地療法のため故郷である岩国に帰省したためとのことである(『タイムトラベル中大125』の「渡辺安積」の項)。
b)組合法
 期中に担当教員の交代があり、渋谷慥爾から山田喜之助に変更されている。
 その結果、渋谷は基本科目の担当から離れ、英国判決例と期中で開始された羅馬法の担当となった。
 『タイムトラベル中大125』の「渋谷慥爾」の項には、「初年度から第一学年の組合法、羅馬法、判決例の講義を担当し、以後、英国刑法、帝国憲法なども担当することになる。また、開校直後に磯部醇が長崎商業学校へ赴任したために欠員となった代理法の講義も取り敢えず渋谷が担当し、間もなく山田喜之助が年度途中から引き継いでいた」とある。
c)設置広告から変更となった担当教員
 契約法の渡辺安積、私犯法の山田喜之助、代理法の磯部醇、組合法の奥田義人だが、設置広告で2科目の担当予定であった山田喜之助が、代理法の磯部醇の欠を埋める形で3科目を担当する。
d)20年史
 3科目について担当教員が、修了証、学年試験と異なる。元とした資料に混乱があったものと推測する。

<第1年級修了証(1885年入学)と他の資料との比較表>
英吉利法律学校1885年第1年級修了証(1885年入学)と他の資料との比較表