「英吉利法律学校 第1回卒業生 神谷泰一氏の軌跡」をブログで公開してからしばらくして調査漏れに気づいた。
 判事=官吏であるのだから『官報』や『職員録』に何か情報があるはずだということに気づいた。

 今回の調査と前回のブログとを総合し、神谷の軌跡を年表形式で表すと以下のようになる。

1885(明治18)年
 英吉利法律学校に入学。
1887(明治20)年
 代言人試験に合格し、代言人免許を取得。
1888(明治21)年7月
 英吉利法律学校を卒業。
1890(明治23)年ころ
 「東京五大法律学校連合討論会」に登壇。
1893(明治26)年
 東京の麹町区(現在の千代田区)に事務所を置いて弁護士として活動。
 雑誌『文明之利器』第6号(1893年11月)に「在岐阜客舎 神谷泰一」として「法学家の養生ヨリハ寧ロ法律思想ノ普及センコトヲ望ムむ」を寄せる。
1894(明治27)年4月24日
 判事に任官(高等官八等)。(注1)
1894(明治27)年4月25日
 長野区裁判所判事兼長野地方裁判所判事に就く。
1894(明治27)年5月30日
 正八位。
1895(明治28)年
 七等十二級。
1896(明治29)年
 従七位。
1899(明治32)年
 長野地裁に異動(七等十一級)。
 高等官六等(奏任官)。
1900(明治33)年
 長野地裁(六等九級 正七)。
1901(明治34)年
 大垣区裁判所(支部)(岐阜地方裁判所の傘下)に異動 。(注2)
1901(明治34)年9月20日
 死去(大垣区裁判所判事;現職)。

注1: 神谷の給与は、「判事検事官等俸給令」(1894(明治27)年2月15日勅令第17号)(『職員録. 明治27年12月現在 甲』(p.16)により、600円の給与を受け取っていたものと推測する。
注2: 神谷の給与は「判事検事官等俸給令」(1899(明治32)年4月勅令第153号)(『職員録. 明治34年(甲)』(pp.21-22)により、800円の給与を受け取っていたものと推測する。

 神谷は、代言人、弁護士として東京で活動し、判事に転職して長野県を振り出しに岐阜地裁の判事として生を終えた。原籍地(出身地?)である岐阜県での仕事は1年に満たなかったであろう。
 生まれた年は不明であるが、判事任官同期の今村力三郎が1866(慶応2)年生まれであることを参考にすると、享年は30歳台後半ということになろううか。

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 以下は今回調査の結果である。

1 『官報』

 『官報』1894年04月26日号の彙報(叙任及辞令)の項に以下のとおり掲載されていた。これが神谷の判事としての始まりである。

    明治27年4月24日
     任判事   神谷泰一
     叙高等官八等   神谷泰一


    明治27年4月25日
     補長野区裁判所判事兼長野地方裁判所判事  判事 神谷泰一

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 なお、同日判事として一緒に採用された9人のなかに刑事弁護士として著名で、後に専修大学総長を歴任した今村力三郎がいる。今村は彼の故郷である長野県飯田の飯田区裁判所判事に任命されている。神谷の長野区も今村の飯田区も長野地方裁判所の傘下にある裁判所である。

 その後、翌月、5月30日付で正八位に叙されている(『官報』1894年05月31日号)。

 

2 『職員録』(内閣官報局)

 『職員録. 明治27年12月現在 甲』(pp.118-119)に長野区裁判所の4人の判事のひとり(4人目)として掲載されている。また、兼務先の長野地方裁判所の項に8人中8人目に掲載されている。そこには、「八等十二級  正八 神谷泰一」とある。

shokuinrokuu_18941200_01

 

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 その後、
1895(明治28)年
 七等十二級(『職員録. 明治28年(甲)』)。
1896(明治29)年
 従七位(『職員録. 明治29年(甲)』)。
1899(明治32)年
 長野地裁に異動(8人の判事のひとり(8人目);七等十一級))(『職員録. 明治32年(甲)』)。
1900(明治33)年
 長野地裁(8人の判事のひとり(6人目);六等九級 正七(『職員録. 明治33年(甲)』)。
1901(明治34)年
 大垣区裁判所(支部)(4人の判事のひとり(3人目);六等九級(『職員録. 明治34年(甲)』)。
1901年9月20日
 死去(『官報』1901年09月28日号、彙報-官庁事項-官吏死去)。
 そこには、「官吏死去 大垣区裁判所判事判事正七位神谷泰一ハ本月二十日死去セリ」とある。

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