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スペインは引き続き規制緩和段階。

警戒宣言期間中の国民の一番の関心事は、感染者の増加と死者数の確認と、医療機関の対応だったと思うが、現在は、行動の自由拡大、経済回復、ベーシックインカム、一時雇用調整支給金等の援助金の獲得等に見える。

 

政治界では、コロナ危機の対応に関連して、与党と野党の対立、および、左派右派の対立、旧大政党、対、独立派を含む地方政党や新党の対立、いろいろな分裂が目立っている。

 

現在一番ホットなテーマのひとつは、治安警察の高官が降格された事である。

内務大臣は当初その理由を政府への報告義務を怠ったからと説明していた。しかし、その理由を突き止める上で、政府が報告を要請した情報は、「国際女性デーのイベントを強行した政府の落度」を捜査している裁判官が要請した情報だったと事が判明した。当該情報は3権分立の観点から、政府には渡すべきではない情報だった事が暴露された。

これにより、第一与党の中道右派PP(国民党)と極右Vox党は激しく内務大臣を非難し、辞任を要求。

政府は内務大臣を擁護と激しい対立の図となった。

 

スペインは、第一・二次世界大戦に参戦しなかった欧州の珍しい国で、その理由はその前に激しい市民戦争があったからである。

従って、最後の大戦は国を2分した「市民戦争」という事で、今でも、右派・左派の溝は深く、それが、独立運動とも深い関係を持つ。

 

スペイン市民戦争は1936年から1939年まで第二共和政期のスペインで発生した内戦で、当時は共和制だった政府(左派)の人民戦線政府軍と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍(ナショナリスト派)とが争ったものである。

このフランシスコ・フランコは後独裁者となり、ドイツのヒットラーとも親交があったが、第二次世界大戦に参戦しなかった事から失権せず1975年に病死するまで実権を握っていた、その頃の欧州では稀にみる息の長い独裁者であった。

 

独裁者で将軍であったが、実は以下の通り1947年7月に自身が「終身摂政」となる王位継承法を制定していた。-> 個人的にはこれがフランコが賢く、長期統治した理由であると思う。

 

(ウィキペディア)

1947年に、フランコは「王位継承法」を制定し、スペインを「王国」とすること、フランコが国家元首として王国の「終身摂政」となること、後継の国王の指名権が付与されることなどを定めた。王位継承法は7月16日の国民投票で成立し、彼は終身の国家元首の地位を得た。

~(途中省略)

最終的に、フランコは1969年にアルフォンソ13世の孫・バルセロナ伯の長男であるフアン・カルロスを自らの後継者(皇太子)に指名し、将来の国王としての教育を受けさせる一方、その後自らは公の場に出ることを差し控えるようになった。1975年、長い闘病生活の末に83歳で没した。

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つまり、共和制派(左派、共産党、独立派等)からすれば、今の王家はフランコの後継者であり、クーデターにより正式な政府を倒した独裁者の継続であるとなる。

 

だからバスク州、カタルーニャ州、左派の共和制支持者が王家を歓迎しない事は、歴史的に妥当であると言えるし、反対に右派やスペイン国家の支持者からすれば、王家自体が現在のスペイン維持の象徴であり、守っていかなければならないものである、となる。

それが今の複雑なスペインの問題の根源で、問題の根は深い。

 

実は、我家から、スペインの靖国神社の様な存在だった

「戦没者の谷」が遠くに見える。

以下の様な慰霊施設であるが、施設自身が市民戦争の多数の左派政治犯を使って建設され(右派は拘留者が任意で手伝ったと主張)、過酷な建設現場で死者も多く、左派は強制労働だったと批判。

中の教会ではフランコ将軍の墓があった事で長年11月に右派の巡礼があり、左派よりは忌み嫌われていた。

既に現政府によりフランコの墓は他に移動されている。

 

この施設の中の岩山の上に巨大な十字架があり、正面入り口頭上と十字架の基礎部分に刻まれた神々の彫刻は、フアン・デ・アバロスの最高傑作であると言われており一見の価値があるので、機会があれば是非見て欲しい。

個人的には過去2度行った事があるが、施設内は建設中の死者やフランコへの恨みが漂っているせいか、異常に涼しかった事を今も覚えている。

 

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戦没者の谷(せんぼつしゃのたに)またはバジェ・デ・ロス・カイードス (Valle de los Caídos)は、スペイン・マドリード州サン・ロレンソ・デル・エスコリアルにある、国立の慰霊施設。
スペイン内戦で戦死した兵士を讃えるため、スペイン総統フランシスコ・フランコがグアダラマ山脈の谷に1940年から1958年にかけ建設した。しかし、讃えられている名前はホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラとフランコ自身の2人だけである。フランコはこの施設が「国による償いの行為」であるとも主張していた。
フランコ支配時代の名残りであるこのモニュメントとカトリックのバシリカ(聖堂)は、特に政治犯によって建設されたという事情もあり、いまだ論争の渦中にある。この複合施設を運営管理するのは、政府機関の一つ国家財産委員会(es:Patrimonio Nacional)である。

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