以下、おもに岩波書店版の「コーヘレト書」の、勝村弘也氏による「コーヘレト書 解説」(以下、「解説」)を参考にして、自分なりに要約しました。

「コーヘレト書」(※「コヘレト書」ともいう)は旧約聖書(=ヘブライ語聖書)に収められている文書であり「伝道の書」とも訳されていますが、「コーヘレト」のヘブライ語の元の語は「集会」とか「会衆」を意味する「カーハール」なので、この書を書いた人は集会の主宰者とか招集者、伝道者といわれてきました。全体で12章から成る、聖書の中では比較的短い方に入る文書ですが、最初から最後まで一人の著者が書いたものとは云われていません。最後の12章は14節ありますが、特にその9節以下は編集者…それも複数の人の筆によるものとされています。文学的特徴としては、よく「囲い込み」(インクルージオ)構造ということが指摘され、これにこだわる解釈が見受けられますが、私自身、コヘレトの言葉を生活に活かすという実践においては、そのような知識はどうでもよいことだと考えています。この構造というのは要するに別々の章の箇所同志が内容的に対応しているということです。

たしかに著者は(冒頭の表題にある通りソロモン王であるとは思えないにせよ)当代の富裕な知識人としてイメージされるのでそのような技巧を施す可能性も推測されます。しかし前述のとおりこの作品には編集の手が加わっているとされ、前述の「解説」では、「序詩(一)と終詩(二)による囲い込み構造も編集者の手になる可能性がある」と言われています。だから私は、「囲い込み構造」というもの自体に、著者コーヘレトの主たる意図が置かれているとは思えないわけです。この書の読み方について私個人としては、章を越えて似た文言同志を比較対照することは当然しますが、物語のような一貫した筋があるとは思わないので、関連性にこだわるのではなく、格言集や詩文を読む場合のように出てくる1つ1つの言葉の意味を味わうといった読み方がふさわしいと思っています。その点では、内容的な違いは大きくても、同じ知恵文学としては箴言に近いと感じます。ここで少々、「解説」から引用しておきます。「この著作には思想の論理的発展のようなものはなく、著者は段落ごとに論旨の重心を移動させたり、同じテーマに関して視点を変えて語ったりしていると考えた方がよい。作品全体に明確な論理的構造のようなものを見いだすことは出来ない。」(p209)

1章の最初の「ダビデの子、エルサレムの王」とか12節の「私 コーヘレトは、エルサレムでイスラエルの王であった」いう言葉からソロモン王著者説がありますが、おもな聖書学者は懐疑的です。いずれにせよ当時では超インテリであり、2章を見れば大金持だとわかります。もっともこれはコーヘレト本人のことではないとの説もあります。「ここに記されている事は必ずしもコーヘレト自身の『告白』ではない。それは列王紀九 - 一一に現われている所謂『ソロモンの栄華』の伝説に託した半ば想像的な叙述であり、コーヘレト当時の貴族・富豪らに対する当付けの意味もあったであろう。そこにどれだけ著者自身の経験が織り込まれているか、それはここに問う必要もない。」(→「『コーヘレト哲学』(有賀鐵太郎)抜粋③」)。

それでも私のような一介の庶民が聖書の中でもこの書を生活教典としている理由はシンプルにして実際的であり深みがあるからです。「コヘレト的生活」とはどういうことかを端的に言えば、一方では厳然とある現実世界の不条理を「空」として直視しつつ、もう一方ではそういう現実の中でも対神関係において日々の生活の中に、ささやかなことであっても歓びや楽しみを積極的に見出してゆくことです。「神からの贈り物」(マタット・エロヒーム)とは「その労苦を喜ぶ能力」(5:18)とあり、関根正雄訳では「その労苦することを楽しみとするすべての人」となっていますが、「労苦」も「苦」である以上、それを喜ぶとか楽しむとかいうことは自虐嗜好の人でもないかぎりあり得ないです。だからここは解釈の余地が大きいのであって、ここでは「労苦」と訳されている「アーマル」に、「~に」を意味する前置詞と「彼の」を意味する人称接尾辞が付いて「彼の労苦に」となっており、労苦そのものを喜びの対象とするのではなく、労苦という状態の中でそれを喜ぶといった意味にもとれる表現になっています。「喜ぶ」と訳されているのは、ここでは動詞「サーマハ」に接続詞と前置詞が付いた不定詞形で「喜ぶことを」と訳されますが、新共同訳のように「サーマハ」は「楽しむ」とも訳されます。それは「苦」の一種である「労苦」を美化しているとか自虐的に言っているわけでないことは言うまでもありません。

1章3節や2章18節では「労苦」(アーマル)は現実的・否定的に言われています。ここでも「労苦」自体を喜ぶとか楽しむと言われているのだと解さなければならないわけではなく、ミルトス対訳で前置詞を単に「~に」ではなく「~のうちに」と訳しているように、そして新共同訳では「労苦の結果を楽しむ」となっているように、神の賜物は、様々な労苦を伴う社会生活のうちにも我々が喜び・楽しみを見い出してゆける他力であると解されます。人間が他者との関係内存在ということは逃げられない制約であり、そこに怨憎会苦や愛別離苦などが生じることも現実なのですから、社会で生き抜くためにはそこは乗り越えるなり突破するしかないわけです。ただ、それが自力ではなく他力でやるからこそ可能なわけで、対神関係を抜きにして自力でやろうとするから問題がこじれます

ところで太宰治は、『如是我聞』の中で「人生とは、(私は確信を以て、それだけは言えるのであるが、苦しい場所である。生れて来たのが不幸の始まりである。)ただ、人と争うことであって、その暇々に、私たちは、何かおいしいものを食べなければいけないのである。」と書いています。コヘレトの心境に通じるものを感じます。

2章24節の「自分の労苦に幸せを見てとること、これ以外に人の幸せはない」というその「労苦」に「幸せ」を見るという点が「逆説的」であるとの岩波版翻訳者である月本昭男氏の2章24節の注釈から考えても、「労苦」は「苦」なのだから本来、喜べないことであり、それを「喜ぶ」というのは何らかの積極的な意味が込められているとしか思えません。その逆説的意味は何か?西村氏の注解書には、この2章24節のところで、「人生を楽しむ能力は人間の力になく、神からの賜物として来る。人は、神がそのことを可能にするのでなければ人生を楽しむことはできないという彼自身の発見を述べる」との一文がありますが、まさに対人関係だけでは「労苦を喜ぶ」ということはあり得ないし、それを「能力」などとは言いません。ところが対神関係に入ると、そうではなくなるのです。その「能力」というのは人間の自力ではなく他力です。私なりに敷衍して現代的に解釈すれば、社会生活における対人関係で平和を構築してゆく許容力です。なぜなら、人間の現実社会では「労苦」の経験を避けて食べてゆくことは不可能であり、どうしても「労働」し、これに伴う苦しみも味わわざるを得ません。そうなると、その苦しみの解決として人間の自力による諸事に頼ることになりますが、それが更なる苦しみを生むことにもなるので、空しいのです。現実社会での「労苦」の解決は、「造り主」(12:1)との関係に入り、その他力によって成される以外にはないです。同じ「労苦」でもそれが人間の欲望に帰するものではなく、そのような世俗の価値観を相対化する神仏の救済意思に用いられるものだと信じ得るからこそ、その労苦する自分の生き様も喜ぶことができるのです。じつに宗教の本丸は「神」でも「仏」でもなく、その「救い」(の経験)です。それなしに「神」を言い「仏」を言っても無意味です。宗教は大乗救済宗教であって然りです。

「労苦」(アーマール)は岩波版の用語解説で、「何かを得ようと力を尽くすこと」・・・コーヘレト書では「その大半が人間の労苦の空しさを言うが、他方で、そのような労苦に幸せを見ることが神の贈り物だとも言う(3:13、5:17)」と書かれてあります。じつは「アーマール」とは違う言葉で「務め」とか「課題」とか訳される「イヌヤン、インヤン」(西村氏の注解によると、これは構成態で、コヘレト書に8回出る〔p110参照〕。名詞は「インヤーン」らしい)とかいう言葉も西村氏の注解では「労苦」と訳されている(p210 /3:10)のでまぎらわしいので、新共同訳が「務め」、岩波の月本訳が「務め」、「営み」、「仕事」と訳し分けているように、西村氏もそうするのがホントウである気もしますが、語源の動詞「アーナー」には「悩む、苦しむ」という意味はあるようです。でも1:13には「悪い」を意味する「ラー」という形容詞が付いているので、西村氏は「インヤン」を「労苦」とはせず「課題」として「苦しい課題」と訳しておられ、3:10は「課題」と同じ言葉を「労苦」と訳すことをよしとしておられるのは、こちらには「ラー」で修飾されていないからでしょう。ただし「アシェル」という関係代名詞があって、ミルトスの対訳を参考に自分勝手に意訳すると、「神が人の子らを悩ませるために与えたところの務め」ということになります。この「悩ませる」は「答える」とも訳されます。ミルトスの対訳の本文では「悩むために」となっています。その言葉は「~に」を意味する前置詞「ラ」が付いた前述の動詞「アーナー」の変化形です。西村訳では「神が人の心に与えて耐えさせる(関わらせる)労苦」となっており、「悩ませる」ではなく「耐えさせる」となっています。でもカッコで「関わらせる」と書かれてあるのも意味深にとれないこともありません。この聖句だけ切り取れば、対人関係に悩みを感じている人間に対して、他者と関わらせる神の力と受け取れるからです。その場合、修飾されている「労苦」(とは訳すべきではない、ミルトス対訳では「務め」)とは、やはり1:13と同様、「苦しい課題」ではありますが、それが人間の自力でなされるのではなく神による他力でなされる点が重要です。「神の贈り物」とは、アプリオリに対神関係に入っていることを示しています。

また、「解説」では、「『労苦』『営み』と言っても問題になっているのは、彼の場合、肉体労働ではなくあくまでも知的労働」と言われています。たとえ3Kの仕事であっても神様が与えてくれた生計手段だと思ってがんばる・・・みたいな話ではありません。もちろん知的労働も労働である以上、きついことは多々あることは、私も両方をやってきているのでよくわかります。労働を神聖視したり美化するような考えはコーヘレトには無いのです。それはむしろプロテスタント・キリスト教における「天職・召命」(Beruf)論に関連し、現代の日本資本主義体制においては利用される考え方です。愛する妻子を、家族を、養うためだ、守るためだ、と自分に言い聞かせて、世間や会社に対する義憤を抑圧し眠らせて資本主義体制に順応している労働者の苦労は「愚者の労苦」(10:15)です。宗教者は、偽善的な組合運動などはせずとも、組織に対する批判精神は維持しておきましょう。

コーヘレトの言う「神からの贈り物」とか「幸せ」の意味は滅私奉公型の日本的勤労精神ともまったく関係ないのです。コーヘレトにおける「労働」はいわゆる「疎外」された労働ではありません。苦労も苦労とは感じないほどに歓びある働きです。でも現実にはそんな甘い話はありません。社会主義革命が起きて生産手段が自己のものとなったからといってもユートピア社会が実現するわけではないです。なぜなら人間の心の問題は解決されないからです。それは政治的には無理であり、宗教的にしか解決されません。だから無宗教が支配する一般社会は「空」なのです。その中にあっても「神」との関係を生きている者は労苦に耐え、積極的な意味を見出してゆけるということです。「労苦」ということを現代の日本社会にあてはめて解釈すれば、特にストレスの原因となる対人関係での平和構築を志向することであり、それは絶対他力によってのみ実現可能なことです。

「人の労苦はすべてその口のゆえである。そして、その魂は満たされない。」(6:7)

諺にあるとおり、口は災いの元です。それは人間関係における問題です。

コーヘレトが「労苦を喜ぶ」とか「労苦に幸せを見てとる」という意味は、人間との関係では災いや争いにつながる「労苦」も、神との関係においては積極的な意味を持つ苦難として、新約聖書で言えば、イエスの十字架刑に至る苦難に通じ得る建設的な苦しみとして受けとめることができるということです。それが相手を許容することです。些細なことで自尊心が傷つくから相手を許容できないわけですが、それって自分が失われてしまうような恐れを抱いているからなのです。どんなに対人関係の中で蔑まれ傷つけられても、それで自分自身が失われてしまうようなことがないのは、我々は対人関係と同時に、否、それ以前そしてそれ以上に、対神関係を生きているからです。要するに超・主観主義です。

言わんとすることはこうです……、たとえば、Aさんという人がいて、周囲の人々は彼を蔑んでいるとします。それはAさんが被害妄想に陥っているとか気のせいだとかいうことではなく、客観的事実としてそうなのです。証拠となるような事例があるのです。だからAさんは自分を蔑む人々に対する憎悪の炎を内に燃やしながら生きているとします。そういう人に向かって、蔑まれるのがイヤなら、連中を見返してやる気概を持ってなんかやったらどうなの?なんて言ったって非現実的です。そんな気概を持って戦える人なら、はじめっからそうするだろうし、それができる人ならそもそも周囲の人々から蔑まれることもないでしょう。自分の内に炎が燃えるのはそういう力も余裕も無い、所謂ダメ人間になっているからです。Aさん本人がそれを承知しています。自分で自分自身を情けない奴だと思っているのです。でもどうすればいいかわからない…心は嵐の海のように波騒ぎ、このままでは頭がどうにかなってしまいそうです。そんなAさんの救いにつながる道は何かと言えば、自分の外部を…つまり自分を蔑む人々の心を変えようなどとは思わず、そのような周囲からの蔑みの目を気にする自分自身の心…、さらに言えば、周囲の人々を見返す気概も持てず、自分の外を変えることを諦めるしかない自分を惨めだと思うその心をも相対化するのです。

それをわかりやすく言えば、他人が自分をどう思おうとそれは第二義的な現実のことであって、自分の人生の第一義的な現実のことではない!と思う…ということです。それすなわち、絶対と思い込んでいた現実(=第二義の現実)を、別の現実(=第一義の現実)でもって相対化したということなのです。それは誤魔化しとか現実逃避ではありません。あるいはまた、キリスト教会で信者たちが「主の祈り」における「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く」云々を唱和する時に感じられるような、なんとも気持ちの悪い、上から目線の独善的な思いなどとも異なります。もちろん、第二義の現実(対人関係)を第一義の現実(対神関係)によって相対化するというところまでは理屈であって、これを実践するには第一段階として同信者の共同体である宗教環境に身を置いて対神関係に在る自分を実感する必要があります。そして第二段階はその宗教環境から離れても各人の日常生活の中で対神関係に在る自己を強く意識し、それを維持する必要があります。そのためには同信者のことを想起することは有益です。自分と同じような問題を抱えて格闘している同信者のことを想えば霊的に励まされるのです。とにかく、宗教環境に身を置いた時間だけ自己解放されたような気分に浸るというのではダメです。本当の勝負の現場は同信者が不在の無宗教状況であり、職場や学校での対人関係なのです。言わば、砂漠を旅する者が心の内にオアシスを持ち続けるといったことです。闇の中に輝く光は自分の外ではなく内に見出されるのです。自分の内に光を持つ人が増えれば、彼らの振る舞い如何では外の闇を光に変えることが可能となります。しかし救済宗教における「救い」とはまずもって外界(客観)の変化ではなく内界(主観)の変化なのです。

なぜ相手のちょっとした言動に耐えられず怒りを抑えられないのか?なぜ、その相手を許せないのか?なぜ自分が謙虚になれないのか?それができればシャーロームなのです。客観的にも主観的にも平和・平安なのに・・・。その理由は簡単です。脳内物質の分泌がおかしくなっているからです。そして自尊心が強過ぎるからです。神を有とするなら自分を無に近づけることができます。本来は無である自分を有として意識し過ぎるから対人関係が争いになるのです。この意識をなんとかしなければなりません。そうでないとストレスでどんどん身心が蝕まれてゆくからです。自分が自分の脳を制御できないから人は苦悩するのです。そして苦悩はストレスによりガンを誘発します。人は脳によって生き脳によって殺されるのです。この脳をなんとかするために自分なりに創意工夫しなければなりません。広義の修行です。

蔑まれていることは事実だとしても、その事実が苦にならないようになれれば、本人にとって蔑まれることなどどうでもよくなるのです。自尊心それ自体を否定する必要もありません。自尊心は、蔑まれることによって傷つく程度の弱い心ではなく、蔑まれることをも苦にしない強い心として持てるようになるのです。

こういうことは観念論にすぎないのでしょうか?否!自己解放から積極的な生き方への実践的意義が経験的に認められるなら、それは単なる観念論として看過することはできないのです。自己解放は主観主義的とは言っても、第一に自分が置かれている状況の客観的事実を直視することが大前提です。宗教はその上でその客観的事実を乗り越えるのです。

客観的事実を絶対視するのは科学万能主義的教育の影響です。もちろん第二義とは言え対人関係の社会的現実に身を置いて生かされている限り、客観的事実を軽視することはできなし、イエス自身も主観的に神話ばかり言ったわけではなく、ユダヤ教的伝統との関係で客観的事実を踏まえての所謂「反対命題」を語ったのであり、けっして歴史的事実…すなわち客観的事実を軽視してはいなかったのですが、我々凡人の心の問題はその客観的事実をあまりに絶対化することです。それは精神衛生上の問題です。

人間には肉体的世界だけではなく精神的世界があります。後者では歴史的社会的現実では尽くされない神話が必要とされます。キリスト教の最大の誤りは、歴史と神話とを混同していることですが、その区別をきちっとした上で、両方の意義を公平に評価することが大切なのです。それすなわち、客観的事実と主観的事実との両方を等価で受け入れるということです。社会的現実は法律で示されるとおり客観的事実が主観的事実に対して優位になっています。これが宗教では逆になるのです。

人生における第一義の現実とは対神関係です。そこでは第二義の現実である対人関係における評価とは全く関係なしに、自分本来を然りと評価されるです。それがイエスの福音です。なにか善いことをしたからとかいう条件付きなら、それは対人関係の評価と同レベルですが、対神関係の評価はそうではないのです。そのことがイエスの「放蕩息子」や「ぶどう園労働者」などのたとえ話などで示されています。

客観的事実といっても対人関係である以上、人生においてはしょせん第二義の現実です。主観的事実も同じではありますが、イエスの福音を信じるということはその主観を突き詰めることです。それで超・主観主義というのです。ただの主観主義でないのは、自分の対神関係での福音的評価を突き詰めることによって、自分個人にとどまらない共同的信仰につながってゆくからです。

この、対人関係と対神関係の二重関係性に気づかされることが聖書における回心の体験です。どちらがより重要な関係かという点で両方の関係の関係は「不可分・不可同」だけではなく「不可逆」ということが言われるのです(~滝沢克己氏)。但し、イエスの対神関係における距離感と私自身のそれとはかなり違うと思います。私が特にこれだけはイエスの対神関係に異を唱えねばならないと思うこと、それが(父なる)神との近さです。「アッバ」などと幼児語で甘えるように呼び掛けたのですから、この神秘主義的な感じは私には耐えられません。私の対神関係はあくまでも「遠くの神」です。私にとっての神は、人格的存在ではあっても超絶者なので…。

以上の文言を読まれた読者の中には、私が述べていることは聖書の拡大解釈ではないか?と疑問に思われる人もおられるでしょう。そうかもしれません。しかし教会組織の聖書解説にも拡大解釈はあります。どうせ拡大解釈するなら、教会組織とは違って自分の生活に実践できる方向へ大胆に致したいと思っています。

そこで話を元に戻しますが、大切なことは対人関係において平和を構築してゆく「許容力」なのです。そのためには少々の苦しみが伴います。しかしそれは自力ではなく他力であって、無用なプライドを放棄せしめる「神の霊の力」です。それがイエスの言う「幸いなるかな、心の貧しき者たち、天の王国は彼らのものである」(マタイ5:3)という言葉の意味です。「心が貧しい」という意味は「霊において無一物」ということであり、「霊」を「心」と訳したのは厳密ではないですが、皮肉にもそれがこのイエスの言葉の二重の意味を表現するに役立っています。

すなわちこれはよく誤解といわれる、「心」そのものが否定的な意味で貧しいという意味もあり、また、「霊」において、霊的にということですが、その貧しさという肯定的な意味もあるということなのです。原文が「心」(カルディア)となっていたなら直訳して、その「貧しさ」を否定的な意味にだけ解して、これを「幸い」とみなすことは逆説であるということになりますが、「心」と訳されているのは「霊」(プニューマ)ですから、その「貧しさ」は謙虚さとして肯定的な意味に解し得るのです。すなわち「霊」を「心」と訳した日本語訳聖書でこのイエスの言葉を読む限りは、同じ「貧しさ」でも一方では対人関係における意味(「量」)が示され、もう一方では対神関係における意味(「質」)が示されるのです。これは「霊において乞食である者たち」(岩波訳5:3注)と直訳された場合よりも一段と深く理解することができます。なぜならまずもって現実はまさしく「心が貧しい」という問題があって、そこに対人関係におけるストレスの苦悩が生じているからです。その「心」の苦しみを根本的に解決するには、人間業である精神医学や心身医学あるいは臨床心理学などの学問では限界があります。そしてキリスト教神学はなおさら無力です。聖書教学は神学ではなく、対神学とか神関学と呼ばれて然り。学問とし得るのは「神」ではなく「(対)神関係」だからです。人間学において比べ合うのは相対的存在(=人間)であり、他人との関係では「貧しい」というのは否定的な意味になります。一方にはそういう否定的意味の「貧しさ」がありますが、対神学ひいては宗教においては、その否定的な貧しさが肯定的な貧しさに転換されるという出来事が起きます。それを「幸い」だというわけです。現実社会の対人関係において苦しみを経験しなければ、この「幸い」を得ることはできません。その点ではやはり逆説的意味合いがあります。転換とは一時的にせよ、「悔い改め」です。自分など比べものにならない絶対的存在(=神)との関係で質的に「貧しい」というのは当然のことですが、その当然のことに気づかされ「謙虚」にされるということです。この境地では「貧しさ」が宗教的には肯定的な意味になるのです。だから「霊」を「心」と訳さなければ3節は逆説にはなりません。逆説は4節の「幸いだ、悲嘆にくれる者たち」だけでけっこう。

「神の支配=天の王国」は現実の日常世界から離れているわけではなく、その戸口はつねに日常の現実と重なり生活世界と近接しています。だからイエスの福音は、日常生活の対人関係という却下の現実をおろそかにはせず、むしろそれと対神関係との交点に天国へのドアを開示するのです。ルカ福音書17:21の「神の王国はあなたたちの〔現実の〕只中にある」(岩波版訳。その注を参照)もそういう観点から理解されます。真の思想は、まずは看却下であり、地上の日常の対人関係における「心」の苦しみの問題から始まって天上の神存在の問題に至るまでカバーし得なければなりません。その点で日本では八木誠一氏の思想が参考になります。

とにかく、現実世界は地上の王国であり人間の支配するところであり、自分はその「量」の多少・・・資産や能力など・・・を他者と比較しなければならない世界です。相手にバカにされて自尊心が傷ついて悔しいとか悲しいとか言って宗教に逃げたりせず、相手にバカにされないだけの知識を身に着けて優位に立てるよう努力するべきではないのか?…人の世も弱肉強食であり、半沢直樹の「倍返し」のような闘志を持って生きてゆくしかない…というのが、特に資本主義社会の常識でしょう。それは否定できませんが、それでは聖書の福音的な究極の解決にならないことも確かです。人間はいつまでも競争の中で優勝劣敗に引き裂かれ、怨憎会苦からの解放はなく、真の平和は実現しないからです。これでは肝心な「救い」の経験が生じてきません。

対人関係で傷つくのは「心」ですが、その次元で解決を考えると心理学のレベルになり、心理療法…カンセリングも所詮は人間の自力だから根本的な治療にはなりません(三大心理療法は、精神分析療法、行動療法、クライエント中心療法)。心理療法の共通要因に関する一考察 民間講座資格の「心理カウンセラー」や、「スピリチュアル・カウンセラー」など称する者もいますから被害を受ける危険もあります。誤解してほしくないのは、当然のことながら、こういう怪しげな人々に対しても心を開いて、つけいらせる隙を与えてゆくことも神の賜物だということではないということです。むしろ現代社会に横行する詐欺などの犯罪には用心深くある「知恵」もコーヘレト書から学ばなければなりません。隣人を愛するとか、対人関係に平和をつくり出すとか言っても相手かまわず誰とでも仲良くしましょうといったきれいごとではないわけで、そういうお人よしな考えでは被害に遭う時代であり社会なのです。聖書的人間観は原罪人という性悪説ですので、悪から身を守り戦う力も神の賜物と受けとめなければなりません。

自分自身が、「心」の次元の問題を「霊」の次元まで落として受けとめることが必要になります。そうすれば宗教のレベル、聖書的には対神関係のレベルになり、聖霊による治療が受けられるのです。ですから「心の貧しさ」とは他人のちょっとした過誤も許せない狭量な心の状態を言うのではないのです。そんなレベルの話ではありません。それなら「幸い」ではなく、むしろ「不幸」なのです。「霊」の次元まで落としているから「幸い」なのです。対人関係だけでものを考えず、対神関係まで深めて考えているからです。それによって許せなかったことも許せるようになるのです。対人関係だけに視野が狭められた「不幸」な状態が怨憎会苦のような状態であり、争いの状態です。自分が相手を蔑んでいて、その蔑みの対象から逆に自分自身も軽んじられている、バカにされている…ということが自尊心に最大のダメージを与えるから許せないのです。その憤りや恨みから解放され、むしろ「シャーローム/エイレーネー」(平和、平安)の関係を築いてゆけることが幸福なのです。その端緒になる経験が「救い」です。「心」の次元の問題を「霊」に次元まで深めて、つまり心理的な問題を宗教的な問題まで徹底して考えてゆくことが幸いへの道なのです。

そうすると、他人との関係における自分の「量」的貧しさへの憤りが、神との関係における自分の「質」的貧しさへの自覚によって解消されてゆくのです。「量」的貧しさというのは他者との優劣比較によって生じてくるものであり、富だったり能力だったりいろいろです。その「量」に乏しいということに怒りを感じる自分が心理学などで救われることはありません。そういう地獄の底の人間は、「質」的な貧しさを悟る以外に活路を見いだせないのです。神の前に砕かれた魂です。そもそも自分は他人のちょっとした言葉を許さないほど立派な人間なのかが問われるのです。そうではなく、神の恵みによって生かされていることが自覚され謙虚にされるのです。対神関係をおろそかにしているから、他人とのちょっとした優劣に一喜一憂しないければならなくなるのです。神の前に自分が立てているなら、ちょっとしたことで自分の存在が失われるような、そんなくだらない自尊欲求、無用なプライドなどで思い悩むことはないのです。

「霊において貧しい」とは、その対神関係をおろさかにしているネガティブな精神状態をも指し、同時に、対人関係の「心」の次元での問題を対神関係の「霊(魂)」の次元の問題へと深め、そこで神の前に謙虚にされる、そのポジティブな精神状態をも指します。二重の意味があるのです。単なる逆説ではありません。「霊において」と言われているとおり、「霊、魂、体」の「霊」に軸を置いてものを考えれば、その「幸い」の意味がわかるのです。この「霊における気づき」および「自己認識・自覚の転換」が「回心=悔い改め」になり「福音信仰」につながります。物質界は人が「肉(体)」に軸を置いて生きる現実であり、そこでは優勝劣敗の競争がつきまとい究極の平安は実現しません。真の平安は人が「霊」に軸を置いて生きる現実であるところの霊界(の「天の王国」)にこそあるのです。しかし生きている限り、この優勝劣敗の冷たい競争社会の中で、少しでも平和な関係を築いてゆけるよう努めることが信仰実践です。そのためには無用なプライドを棄てることが肝要であり、過剰な自尊心を理性で制御すべく他力を受けるのです。自力では無理!

私見では、コヘレトの信仰対象である「神」は、彼自身がその「神」との関係を実存的に生きている日々の暮らしの中でその都度、自覚される存在であり、客観的に「絶対」か否かとか「人格」か否かなどと(…事実、「神」は「絶対(他)者」であり「活力源」…)論じることなど無用とされ、来世についても想像を逞しゅうするような形而上学的思弁は排されています。その姿勢は言わば「知足知止」であり、観念的に定義したりせず常に「空」(ヘベル)という現実経験を踏まえて人生の意味を真摯に探求しています。有賀鐵太郎氏が「一種の実存主義と呼ぶべきであろう」と述べている点は共感します(→「『コーヘレト哲学』(有賀鐵太郎)抜粋①」)。

https://ameblo.jp/amebakamebaka/entry-12441354910.html

ちなみに「実存主義」に関しては「実存」との区別について小田垣雅也氏の以下の言葉が示唆に富んでいます。

「もともと実存という言葉は、現実存在の内側の二字をとったものであり、それは現実に、今このときを生きている自分の存在の真実ということです。それは「いま、そしてここ」に生きている自分の真実なのですから、主義には定着しない性格のものであります。これは実存にはかぎりませんが、主義に定着するものは現実存在をはなれた観念です。だから主義とか観念になったら、たとえそれが自分に関する主義や観念であっても、自分の現実存在、つまり実存はそこにはいません。だから実存主義 という言い方には、実存に対する根本的な矛盾が含まれていると思います。自分についての自分を離れた、抽象的観念にならない真実こそが実存なのだからです。そのことの自覚が実存主義です。たとえば平和主義 という場合、平和主義は平和に対する希求を内容にしたものであり、平和主義は観念的にも存在しますから、平和と平和主義は矛盾しません。また資本主義は、資本の効率を基本にした主義であって、資本主義と資本の効率とは矛盾したことではありません。これは何の主義であっても同じです。しかし実存主義 は違います。実存が実存主義 となって、現実に存在している実存の生そのものを離れ、一つの哲学的概念になったとき、それはその人の現実存在、つまり実存そのものを裏切っています。ブルトマンという新約聖書学者は、この微妙な相違を、実存的 (existenziell)(existential) と実存主義的( Existenzial ) (existentialist) として厳密に区別しました。たとえば新約聖書を読む場合、読者はそれを 実存的に、自分に対する語りかけとして読むべきであって、 実存主義的 に、つまり実存についての観念を前提して、読むのはまちがいのもとだ、と言います。とくに神話の解釈にあたっては、そのことは厳密に自覚されていなければならないと言います。神は実存的真実であって、実存主義的、まして対象論理的真実ではないと言います。しかし問題は、実存は主義になり、言葉によって表現されなければ、つまり実存主義という一つの哲学的立場にならなければ、その立場を本に書いたり、人に伝えることができないということです。神も、たとえばキリスト教という宗教上の神にならないかぎり、人から人へ、歴史的に伝えることはできません。主義やその主義を支える観念はその意味で必要です。しかしその主義や観念には、それが観念であり主義であるというまさにその理由で、かならず嘘が含まれています。キルケゴールの悩みもそこにありました。いわゆる思想の嘘です。」(~ みずき教会説教「コミュニケーションとは」)

http://mizukichurch.web.fc2.com/sermons/sermon0906.htm

私も厭世的とも言える現実感覚の中で、そこからの救済を形而上学的にではなく現実的かつ切実に希求しつつ「捨小就大」を心がけて生きる中で、「神」の実体は誰に説明する必要もなく、自ずと己の中に明らかにされる、そういう実存主義的信仰の立場がよいと思っています。「積極的相対主義」であり「共同主観主義」であって、一神教とは言え拝一神教的なので自己絶対化に陥る危険は避けられます。多神教的無節操主義とは一線を画しながらも不毛な教義論争などに落ち込まないためにはコーヘレト的スタンスがいちばんだと思うのです。それで魂の平安を得てこそ、聖書の宗教は救済宗教だと確信できます。

但し、救済宗教といってもあまりに信仰対象と近いのも息が詰まります。だからコヘレトの信仰的立場がよいのです。美輪明宏氏の言う「腹六分」の距離感です。近すぎる神秘主義的信仰は私が最も嫌悪する立場ですが、神仏は意識ではなく無意識で信心するに如くはなし!独善的にならないためには日常の社会生活では対神関係など忘れるくらいがちょうどいいのです。対神関係は意識して関係するのではなく無意識での関係なのです。

世界観への関心が強い創造論を中心とする信仰的立場はカルト宗教にも通じるほど、特に思弁が過ぎます。しかし私がコヘレトから学ぶのは人生観への関心が強く救済論を中心とするものです。ただし、救済論と言ってもキリスト論的救済論ではなく、神論的救済論です。すなわち、いかに実存的とは言っても、「(真に)人」であるイエスを絶対者という意味での「(真に)神」とみなす三位一体の教説は受け入れられません。

高尾利数氏が言うように「知性の犠牲」とか「大いなる無理」と感じるようなことを(高尾利数著『聖書を読み直す Ⅱ イエスからキリスト教へ』〔春秋社〕参照。特に高尾氏の『ヨハネによる福音書』に対する批判〔p40~51〕や『コロサイ人への手紙』に対する批判〔p43〕は共感する)、教会の伝統だからとか正統的信仰だからとかいう理由で受容しようとは思いません。それは実存主義的信仰の立場であれば当然だと思います。その点、キルケゴールの時代はまだ聖書の歴史的批判的研究がなされていなかったので、神人キリスト信仰が維持されてのは無理もないことでしょう。しかし現代の実存主義的信仰はそうであってはおかしいと自分では思っています。これは一般論で言うのではありません。私にとって聖書の宗教は「キリスト教」ではなくて「イエスの宗教」であり、両者の最大の違いは、イエス自身を「神」とみなすか否かということ。後者においてイエスは「父」のみを「神」としてその栄光を現すために生きています。そのイエスの「言葉」と「業」とによって啓示されているのは「父 - 子」という人格関係であり、諺の「子は親を映す鏡」という意味において「私を見てきた人は、父を見てきたのである。・・・・私が父のうちにおり、父が私のうちにいる」(14:9~11)云々という言葉には真実が示されていると思います。しかしこれを実体論的に解釈すると、歴史を軽視した奇妙な言説が生じます。

イエス自身が、「神」であることを否定している箇所はマルコによる福音書10章18節「なぜ、わたしをよき者と言うのか」という言葉です(並行箇所参照)。「『よき者』というのは、ユダヤ的語法では神を表現するものであり、神自身に呼びかけるときに用いられるもの」だからです(高尾利数著『聖書を読み直す Ⅰ 旧約からイエスへ』〔春秋社〕p126)。無論、教会の教義に無理を感じないのなら受け容れればいいわけで、要は判断基準を教会側に置くのではなく自分個人に置くということです。それは必ずしも共同体主義的信仰に矛盾することではないです。聖書が示す信仰共同体は制度的組織としての教会に限定して理解する必要はないからです。コーヘレトはそういった組織からは自由な立場で対神関係を生きているので参考になります。もっとも私の場合、聖書の宗教と言っても「民衆宗教」にこだわるので、大昔(紀元前3世紀頃)のパレスティナとは言え超インテリのコーヘレトの思想には共感できない部分もあるし、現代日本の超インテリの高尾氏や八木氏の言説も同様です。

 

次回は、私にとってポイントとなる聖句を下に10個挙げてコメントします。