(以下は、有賀鐡太郎著『キリスト教思想における存在論の問題』〔創文社〕第一部「ヘブライ思想における特殊性と普遍性」の「第三章 コーヘレト哲学」〔p97~〕より抜粋。漢数字は節を表し、赤字はブログ筆者が重視する言葉。青字は原語のカナ表記。音訳の英字表記はそのまま書き写すが発音記号は省略。)



ヨブ記とともに重要な「智慧の書」の一つとして旧約聖書の中に特異な光を発つものはコーヘレトである。ヨブ記もコーヘレトもともに硬化し方式化した正統主義に対する批判とプロテストの意味を持つものとして理解されなければならないのであるが、両者がそれをする態度にはかなり異なったものが見出される。ヨブ記は戯曲の形をとり、その主人公ヨブをして、直接ヤハウエ神に向かって、自己が受けつつある不当の処置に対して抗議せしめている。結局ヨブは全能者の智慧と計画とに対する無知を悟らされるが、それはあくまでも全能者との遭遇また対決のうちにおいて与えられた悟りであって、神の臨在に対するヨブの実感は正にそのところにおいてこそ極まるものであった。これに反しコーヘレトは静かに世界と人生とにおける経験的事実を反省しつつ、正統教理が事実に相応しないことを説こうとする。彼は神を否定はしないが、その神は遥かなるところにその姿を隠してしまっている。その神と討論することは徒らであり、また不可能でもある。むしろ、あくまでも経験的事実に即した現実的な生き道を見出し、またそのように人々に勧告することがかれの任務であると心得ているようである。換言すればかれの態度また方法は宗教的というよりも哲学的であるのであって、そこにこの書の旧約聖書中における特殊な地位があり、又それが問題とされる理由もある。アイスフェルトは「この書は懐疑的啓蒙精神と疲れた諦観の息吹きに貫かれている」といい、ジャストロウはコーヘレトを呼んで
a gentle cynic となしている。むしろ一種の実存主義者と呼ぶべきであろう。
このような判断の適否については具さに此書の内容を検討した上でなければ断定を下し得ないのではあるが、ともかく何かそのような少しく変わった印象を与える書物が聖書の中に採り入れられたという事実に対して誰しも問題を、少なくとも興味を感ぜざるを得ないであろう。事実において、この書が聖典的価値を認められるためには、幾多の訂正的註釈が原文の中に挿入される必要があったのである。それらの加筆は、その所謂「ハーシード」(hasidh)的、従って正統派的傾向性のゆえに一見して判別し得るものが多いのであるが、それについてはここに詳しく論ずる必要はないであろう。ラビ達の間にもこの書の聖典性についての論争があり、「シャンマイの学派によればコーヘレトは手を汚さない。然るにヒッレルの学派によれば、それは手を汚す」との対立が両学派の間に存したことがミッシナー・エドゥヨーの中に出ている。そして漸く紀元一世紀末のヤブネ会議ののちに到って聖典における地位の安定を得たものと推定されている。この書がソロモン王の著に帰せられたことが、それに対する尊重と承認とに寄与したこともいうを俟たないであろう。
だが著者は直ちにソロモンの名を掲げることをせず、みずからを唯コーヘレトと呼んでいる。なにゆえであろうか。一・一の表題には「イエルーシャラムにおける王、ダーウィドの子、コーヘレト」とあり、一・一二にも「われコーヘレトはイエルーシャラムにおいてイスラエールの王であった」とある。ジャストロウは前者は後から追加された表題であって、後者が始めから原文にあったところのものであるとする。言いかえれば、著者は一・一の表題が示すほど明瞭に自分を「ダーウィドの子」ソロモンであると名乗ってはいない、ただおのずから読者がそれと推定するように自らをコーヘレトとのみ呼んだのである。それは一つの nom de plume であって、著者はその覆面の下に自らの姿を隠してかれの非正統主義的・批判的発言に何かソロモン的権威を持たせ、それを人々に受け容れ易くするとともに、また他面には自ら直接に名乗り出ないことによって正統派の人々の迫害から身を護ろうとしたものの如くである。それはキェルケゴールの用いた筆名にも比せらるべきものであるが、後者はやがては命がけの覚悟で覆面を脱ぐ準備をしつつあったのであり、コーヘレトは恐らくは何時までも匿名のままで、かれの言葉がどんな反響を呼ぶであろうかを静かに見守っていたのであろうと察せられる。それには、それ相応の理由があったのであろう。一つには彼の人間的性格のうちに、また一つにはかれの呼吸していた重苦しい時代の雰囲気のうちに、それが見出されなければならないであろう。然し、いずれにせよ、かれのような凡そヘブライ的ならざるヘブライ思想家が、その時代 ――前三世紀末葉ころ―― に突如として姿を現わし、鋭い批判の眼を以て自然及び人間社会における経験的事実にむかい、それの伝統的・宗教的解釈に対して敢えて反論の鋒先を向けたという事はヘブライ思想史を学ぶ者の関心を常に惹いて止まないであろう。かれが余りに非ヘブライ的であるというので、そこにギリシア哲学の影響を見ようとする試みは屡々なされて来たのである。たしかに或る点においてはストア的とも見え、また或る点においてはエピクロス的とも考えられるものがある。またプライデラーが主張したようにヘラクレイトスの影響をさえ認めることができるかも知れない。けれどもコーヘレトはここに誰かの特定の哲学を祖述しているのではなく、かれはかれ自らの足でかれ自身の地盤の上に立っている。この時代としてはギリシア的影響がヘブライ思想のうちに感ぜられたとしても、さして異とするに足りないのではあるが、たといかれがそれから受けたものがあるとしても、それは伝統に捕われることなしに独自で物を考える哲学的精神とも云うべきもの以上のものではなかったであろう。この見解はジャストロウのそれと一致するのであるが、本論文の目的もコーヘレトとギリシア哲学との関係を研究することではなく、むしろヘブライ思想の発展における一契機としてのコーヘレト哲学を、そのありの儘の姿において捕えたいという点に存する。
だが、もう一度「コーヘレト」という nom de plume に帰って、著者が何ゆえ自らをかく呼んだかという問題に些か触れて置く必要があろう。この語は QHLなる語根から出ているものであり、そのニィファル形は「集まる」を意味し、ヒィフィル形は「集める」を意味する。
またその名詞形「カーハール」は集会(Versammlung;assembly)を意味する。これらはいずれも用例があるのであるが、コーヘレト(qoheleth)なる形はここ以外には用例がないため正確な意味を摑むことがむつかしい。ミドラシ・ラッバァによれば、ソロモンが「カーハール」の前に行なった講演なるが故にコーヘレト即ち「説教者」と呼ばれているとされている。ヒエロニムスがその語を Concionator と訳したのも、それが「集会の前で講演する者」を意味するとされたからである。これより先ギリシア訳ではこの語を エックレーシアステースと訳したが、これもカーハール=エックレーシアの相応を根拠として選ばれた語であることは明らかである。だが、それだけではそれが正確にどんな意味を持つものと解されたかは知るに由ないのである。
英訳聖書でもEcclesiastes or, the Preacher とあって、「説教者」なる意味に規定している。邦訳では書名を「伝道の書」とし、本文に出るコーヘレトを「伝道者」と訳しているが、それは拙いのであって、何とか改めなければならないものである。しかしいずれにせよ、コーヘレトは一つの筆名として用いられたものであって、その事実の方が、その語義そのものよりも一層重要なのである。